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東京生まれ東京育ちのボクは、30代半ばまで全く知らなかった『焼き饅頭』ですが、調べてみると、これが“日本の養蚕業”と結びつきが深い食品だということが解ったのです。

この『焼き饅頭』のルーツを国道17号線に沿って調べてみました♪




【上州シルクロード】


群馬県の沼田地区は古くから養蚕が盛んな町であり、そこで織られた絹織物は中仙道を通り前橋や伊勢崎で取引され、更に南の行田地区で絹製品に加工されていった。

ワタシはこの沼田・前橋・伊勢崎・行田を通る生糸商人の流れを 『上州シルクロード』 と呼んでいるが、この上州シルクロードを渡って伝わったものはなにも絹製品だけではない。

今回は焼き饅頭という郷土料理からこの上州シルクロードを考えてみた。


【元祖を巡る三つ巴の戦い 〜沼田街道のどこで発祥したのか?〜】


けさらんぱさらん研究所の調査では、焼き饅頭の分布 (群馬の沼田、前橋、伊勢崎)は養蚕業に携わる商人たちが歩いた街道と重なっているということが判明した。

これらの地方は昔から養蚕、絹織物の製造・取引が盛んな場所で、たくさんの絹商人たちが往来しただろう。そしてその絹商人たちが絹織物と共に、焼き饅頭を広めたのではないか、と我々は考えている。

では、この絹商人たちが歩いた道 (これをここでは 『上州シルクロード』 と呼ぶことにする) により、焼き饅頭が広められたとして、その発祥の地はどこだったのだろう。

一般的には、沼田市、前橋市、そして伊勢崎市が、それぞれ「焼き饅頭発祥の地」を名乗っているようなので、順を追ってこれら三市を検証してみたいと思う。


【前橋代表:原嶋屋総本家 〜「渡世訓」や「渡世かるた」まである〜】


焼き饅頭について調べていて、 一番最初に出てくるのが前橋にある原嶋屋総本家がその元祖だという説だ。(これをワタシは「原嶋屋説」と呼んでいる)

1857年(安政4年)に伊勢崎方面の庄屋だった原嶋類蔵さんが、小麦粉と もち米を原材料に、どぶろくをタネ(発酵剤)として、饅頭をつくったのが、 現在の原嶋屋総本家の始まりだったという。当時、どぶろくをタネにして発酵させるという手法はとても珍しかったようだ。そしてその後、ただの白い饅頭ではおもしろみがないないと考え、長い竹の串に刺し、味噌を付けて焼いのが焼き饅頭の誕生の瞬間だった!

その当時の名称は「味噌付き饅頭」で、1尺3寸(およそ40センチ)ほどもある長い竹串に5個さしものを 【1本を2文で販売していた】 らしい。

尚、初代 原嶋類蔵さんが焼き饅頭を創案したときは、地元の菓子組合に阻まれて出店することができず、屋台や露店のみで販売していたのだという。こういった話は大好きだなぁ。すごいぞ類蔵さん!

また原嶋屋総本家には商売の家訓を示した 【「万代不易の原嶋屋渡世訓」】 があり、結構、ふむふむと納得しちゃう内容だったりする。さらに 【「上州原嶋屋渡世かるた」】 なども発行しており、原嶋屋は文化面でもこの地方に大いなる足跡を残してきたようだ。

参考サイト:原嶋屋総本家(日本観光協会サイト)


【沼田代表:東見屋饅頭店 〜「焼き饅頭沼田発祥説」の雄〜】


養蚕業が盛んな沼田地方もまた、焼き饅頭の発祥の地とされているが、ここで最も有名なのが創業1825年(文政8)の東見屋饅頭店だ。この店では今も「味噌饅頭」と呼ばれている。名称に「味噌」を付けるかどうかは、焼き饅頭のルーツやその広まり方を考察する上で重要なファクターになるので覚えておいてほしい。(最後の方に書く■最後に考察として■を参照してください)

沼田地方の焼き饅頭を語る上でもうひとつ重要なのは、中に餡子が入っているものもある、ということだ。沼田出身の知人から「餡入り」の方がポピュラーだ、と言われたこともある。

他の「焼き饅頭発祥の地」では「餡入り」はあまり見当たらず、なかには「邪道」と呼ぶ人さえいるらしい。もともと「餡入り」だったのが、他の地方に広まるにつれて「餡なし」に代わっていったのか、他の地方から入ってきた「餡なし」の焼き饅頭が、沼田に入ってから「餡入り」になったか、それもと、同時多発的に「ある場所では餡なし、ある場所では餡入り」という誕生の仕方をしたのか。実に興味深いところである。


【伊勢崎代表:忠治茶屋本舗 〜焼き饅頭祭の主催者〜】


伊勢崎には焼き饅頭を祭事に取り入れた「焼き饅祭」なるものが存在するのだ。

これは毎年、1月11日に伊勢崎神社で開催される“初市の日”と同時開催で行われるもので、創立は2003年なので、まだ新しいものではあるのだ、その意気込みは相当のようだ。

この「焼き饅祭」は いせさき焼き饅頭愛好会 が主催しており、 直径55センチのデカイ焼き饅頭を作る「大串饅頭」というイベントと、 とてつもなく長い焼き饅頭を作る「長串饅頭」というイベントが行われるらしい。

これだけだと、伊勢崎の地にどのくらい前から焼き饅頭があったのかはよくわからないが、 地元に焼き饅頭が溶け込んでいるということはよくわかった。

伊勢崎の焼き饅頭の有名店は 忠治茶屋本舗 だろう。いせさき焼き饅頭愛好会の代表がこの店の店主で、名前の由来はもちろん国定忠治からきており、なんと、忠治茶屋本舗の建物は、忠治が最後にかくまわれていた西野目宇右衛門宅が解体された際に、その資材を譲り受けて建てたものだとか。

焼き饅祭の詳細は コチラを参照 のこと。


【新田一族ゆかりの地、新田町の「助平屋」】


焼き饅頭のお店をサイトで調べていてビビッときたのがこの 「助平屋 饅頭総本舗」 だ。

サイト記載の屋号の由来を読むと「饅頭がふくらむのと、はらんで腹がふくれるのを結びつけ」初代が名づけたというのだから、「助平」を一般的な“スケベエ”の意味で使っているようだ。

戦争中には「けしからぬ」と当局からクレームがついたのだとか。

また「初代のもうひとつの意とするところは、平らに人に接する、助ける、ということで、心を込めて作り、そして心を込めてお客様をお迎えすることである」という由来も書いてある。しかしコチラの方は当局から文句を言われた場合の「言い訳用」だと思うなぁ。

サイトによれば、

「助平屋の饅頭は、今も昔と変わらぬ製法で作られる。まず米を炊いて麹を入れ、人肌の温度で二十四時間ねかして発酵させ、小麦粉を混ぜて練り上げて生地を作る。それを切って饅頭の形に丸め、セイロに並べて自然発酵させ、ま んじゅうの大きさになるのを待ってから蒸す。

焼饅頭は、饅頭半分、タレ半分といわれ、タレには当店独特の秘伝が隠されている。助平屋の味噌ダレは時間をかけてとろ火で煮込まれている。 タレは、全く醤油は使っていないのに艶やかな黒光り。こってりとした甘さなのだが、くどくなく、口の中でサラッと溶ける。」

だとのこと。是非、食べてみたい。


【最後に考察として】


焼き饅頭は、原嶋屋説でも東見屋説でも最初は「味噌饅頭」と呼ばれていたのだが、これを「焼き饅頭」としたのは、どうも前橋の生糸商人たちだったようだ。

前橋は当時から商業が栄えた街で、たくさんの生糸商人が出入りしていたが、 商人にとっては「味噌」は「ミソが付く=しくじる」に通じ縁起が悪い言葉だとのことで、 「焼き饅頭」 と呼び名を変えたというのがその理由らしい。

それぞれの地方での 焼き饅頭(味噌饅頭)の発祥の歴史と、前橋の生糸商人が名前を変えたとちうことから考えれば、養蚕が盛んであった沼田地方で誕生した「味噌饅頭」が 前橋の生糸商人によって各地に広まったと考えられる。

つまり、焼き饅頭発祥の地は沼田地方だ、と言えそうだが、いかがか。

また伊勢崎の焼き饅頭屋は前橋とを結ぶ旧街道沿いに多く郡部には少ない。 このことから、伊勢崎の焼き饅頭文化は前橋の生糸商人がもたらしたもの、 と捉えることも出来そうだ。

ま、このあたりはまだまだ考察の余地はあるだろう。


【焼き饅頭のルーツが書かれた幻の本がある?!】


ワタシはまだ入手できていないのだが、「焼きまんじゅう屋一代記(木暮正夫〔著〕:偕成社)」という本があり、 それによると沼田と伊勢崎とでは焼き饅頭のルーツが違うということが書かれているらしいのだ。(読んでいないので、なんとも言えないが、そのようなコメントがネット上にあった。)

是非、入手してみたいと思うのですが、 ネットで調べると“在庫無し”の状態で、おそらく、全国の焼き饅頭調査ファンが買いあさっているのが原因だと思われる。

この“沼田、伊勢崎、独立発祥説”が正しいとすれば、 それぞれ独自に発祥した沼田焼き饅頭と伊勢崎焼き饅頭とが、 前橋の生糸商人によって融合され広まったのかもしれない。

このように、まだまだ判らないことだらけの焼き饅頭問題だが、今後も継続的に調査していきたと思うので、皆さんの情報をお待ちしている。


参考サイト:群馬県民が愛する名物料理「焼きまんじゅう」の名店5選(icottoサイト)
Yaki-Manju Best 5 in Gunma Pref.




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ソースカツ丼のルーツを探る
「けさらんぱさらん」は「理系おやじ」のための「不思議発見」サイトです。ビワの木に生息する謎の生き物「ケサランパサラン」についての研究論文(笑)も掲載されています。