【怪猫狐狸伝説の衰退の爪跡】

明治時代初期、まだ東京にも狸やムジナが普通に生息しており、 民間においてもまだまだ『怪猫狐狸伝説』が残っていたようだ。

しかし蒸気機関車の登場などの文明の発展に伴い、 人々の心からそうした“迷信”が薄れていくことになる。 そんな“移り変わりの時代”を象徴するような伝説を訪ねてきた。

【文明開化時代ならでは逸話】

時は明治29年、田端から土浦まで引かれた鉄道には、まだ1時間に1本あるかどうかというぐらいの本数しか機関車が走っていなかったころの話だ。

ある時期、地元住民の間で「なんか、最近よく機関車を見かけるけど、本数が増えたのかねぇ」なんて会話が目立つようになったのだが、鉄道局に尋ねても、そんなことは無いとの返答。

ところがある日、線路の脇にムジナの死骸が見つかり、それ以来、列車の本数は以前と同じように、疎らになったというのだ。

地元住民たちの間では  「きっと ムジナが機関車に化けていた(※1)に違いないべ」 「そうだそうだ、それで本物の機関車にはねられて死んでしまったに違いないズラ」 「そうだそうだ、その通りだっぺ。」  という噂が絶えなかったのだとか。

そんなわけで、そのムジナを憐れに思った見性寺の住職が供養のために作ったのが、今も見性寺に残る上の写真の『狢塚』なのだ。 まだ日本人の心の中に“メルヘン”が残っていたんだなぁ♪

さらにこの狢塚には以前調べた 多門寺の狸と関連(※2)のある言い伝えも残っていた。まさに点と点がつながった感があり、実に嬉しいです。

注釈

※1.機関車に化けていた

だいたい“小さなムジナが大きな機関車に化けた”と いうこと自体に無理があるのだが、実はこの手の話はこの時代によくあったらしい。

この“亀有パターン”の他には、 正面からこちらに向かって逆走する機関車が現れたのに気づいた運転手が、あわてて急ブレーキをかけたら、その機関車はいつのまにか消えていて、 「ああ、もしかしたら、 あれはムジナの化けた機関車だったに違いない。」というのがある。

冷めた現代風に解釈すれば、「運転手が居眠りでもして夢でも見てたんだろぉ、ケシカラン。」 なんてことにも なりかねないのだが、幸いにも当時は まだ人の心に怪猫狐狸に対する畏敬の念が残っていた時代だったので、たまたま線路の脇に ムジナの死骸でも見つかれば、「これはきっと機関車に化けて遊んでいたムジナが、 誤ってはねられて死んでしまったんだろう、カワイソウニ。」なんてことになったのだろう。

見性寺のムジナ以外でも、高輪八ツ山下のタヌキ や 品川近辺の権現山に住む)のタヌキ、鶴見近辺の裏山に住むタヌキ、 五反田のキツネなど がやはり機関車に化けたとの伝説が残っている。

※2.多門寺の狸と関連のある言い伝え

葛飾文化の会が編纂した『葛飾百話』によれば、次のような話がある。

昔、狸の腹づつみの名人として知られた、多聞寺の狸がおってなぁ、 それはそれはすばらしい腹づつみを打ったもんだで。
だけんども、いくら名人といっても年には勝てねぇ。 もう自分は引退するからって言ってなぁ、次の腹づつみの名人を 決める大会を開くことになっただよ。
そんなときに一番の次期名人の呼び名が高かったのが、 亀有に住む親子三人のムジナでよぉ、この親子が名人を目指して 当時作られたばっかりの常磐線の線路の上で、 腹づつみの猛練習をしていたんだと。
だども可愛そうなことによぉ、腹づつみの練習中に機関車にはねられて 死んでしまったのよなぁ。亀有の村人はこのムジナの親子を哀れんで、 手厚く葬り供養したってわけさねぇ。それが今も見性寺に残っている狢塚さねぇ。 とっぺんぱらりのぷ。

ま、表現は全てボクのオリジナルで、ホントはこんな文章じゃない♪ ところで、興味深いことにこの話には後日談があるのだ。

その後日談とは、この元祖腹づつみ名人の狸さんはこの後、 毘沙門天の使いに戦いを挑み、 こちらも哀しい最後を遂げるというもの。

この“毘沙門天の使いに負けた狸”こそ、別に書いた多門寺に祀られている狸なのだ! 複数の場所で知った狸物語がこうやって繋がるのは実に楽しいですねぇ♪

何が書いてあるのかどなたか教えてプリーズ

「の」ってなんとなくムジナっぽい?

見性寺の入り口

外壁に凄いものを発見