新田義興(ニッタ・ヨシオキ)は南北朝時代の南朝の武将です。足利尊氏率いる北朝軍に関東の端である武蔵の国(現在の東京地区)にまで追いやられ、一時は商人に身を潜めて南朝再建を狙っていました。
足利尊氏は室町幕府を開き、要所である鎌倉には配下の畠山道誓(ハヤケヤマ・ドウセイ)が置かれ、南朝軍(南朝は三種の神器を持つ正当な天皇家)の討伐を狙っていた時代の話です。
南朝再建のために徐々に勢力を増してきた新田義興に対して、謀を仕掛けだまし討ちにしたのが、かつて義興の部下であったにも関わらず畠山道誓に寝返った竹沢右京亮(タケザワ・ウキョウノスケ)でした。
最初、竹沢右京亮は少将局(ショウジョウのつぼね)という名で伝わる「16歳の美少女」を差し出し、義興を油断させて近づいてきます。
そして、義興を暗殺しようと宴に誘うのですが、義興に心を寄せた少将局はそのことを義興に伝え、暗殺は失敗に終わってしまうのでした。
怒った右京亮はなんと少将局を惨殺して多摩川に流してしまうのです。(これについては後述します)
右京亮は同族の江戸遠江守(エド・トウミノカミ)や江戸下野守(エド・シモツケノカミ)らと結託し、「南朝軍を多摩川西岸に終結させいっきに鎌倉の北朝軍を叩く」という作戦を義興に持ち掛けます。もちろんこれは義興をだますためのフェイクです。
義興は十余名の屈強な部下とともに船に乗り、「矢口の渡し」から多摩川を超えようとするのですが、その船を操る船頭も右京亮の配下。船頭は船の底に穴をあけると、自分は船から抜け出すと泳いで逃げ帰りました。(この船頭についても後述します)
船には水が入りこみ、どんどん沈んでいきます。そして、川の両岸には右京亮の配下が弓矢を仕掛けて義興たちを攻撃し続けてくるのです。
義興の部下のうち十人が重い鎧を脱ぎ捨て川に入り、泳いで川岸の敵兵の中に突っ込んでいきますが、多勢に無勢。何人かの敵兵を切ったのち、彼らは皆、自害したと言われています。(この十人の部下たちについても後述します)
義興も残った部下とともに自害したのですが、こんなだまし討ちにあったのですから、彼らの魂はこのままで済むわけがありません。
義興の怨霊は「雷神」となったと言われており、義興の死後、七日七晩、雷が鳴り続けたということです。そして、義興をだまし討ちにした者たちは、皆、次々と怨念により・・・・・。
まずは船に穴をあけた船頭。彼らは遠江守より報奨金をもらい船で帰る途中、義興の船が沈んだあたりで、 突然、雷が鳴り響き暴風が吹き始めました。そして船は沈没し、船頭はそのまま溺死してしまったということです。(彼にはさらに後述する祟りがあります)
次に遠江守。帰宅途中の彼の頭上に黒雲が立ち込め雷が鳴り響くと、角の生えた馬に跨る義興の霊が追いかけてきたというのです。彼は義興(の亡霊)が放った7尺の矢によって貫かれるとそのまま意識を失い、「光明寺 観音堂」あるいは「延命寺」に運ばれたものの、七日間、水に溺れたようにもがき苦しみ続けて、そのまま息絶えたとのことです。(光明寺や延命寺については後述します)
そして畠山道誓。彼の夢の中に「身の丈二丈(約6メートル)の義興が鬼や羅刹を従えて現れた」その次の日、自分が治める入間川近くに雷が落ち、民家300余軒、神社仏閣などがことごとく灰燼に帰してしまったとのことです。
更に矢口の渡し近辺には、義興の怨念だと思われる夜な夜な怪しい光が現れるなどの怪事件が続いたとのこと。
こうした数々の怪事件の後、義興の霊を鎮めるために矢口の渡し近辺に建てられたのが、今も残る新田神社なのです。
新田神社に残るいくつかの「怨霊アイテム」を探してみました。
新田神社の祭礼が行われる正月10日と10月10日に、義興を裏切った畠山の一族が訪れると「唸り声を上げる」と言われている狛犬です。
義興の亡骸を「沈められた船の木材」で作った棺に入れて葬られていると言われる塚。ここに入ると出てこれなくなると言われる、別名「迷い塚」。
塚の中心にある一本杉は、義興の乗った船の残骸や彼の鎧が変じたものだと言われていますが、どの木なのかよくわかりませんww
ここの竹やぶは、この地に立てた源氏の白旗が根付いたものだ言われ、雷が鳴ると音を立てて真っ二つに割れるという言い伝えがあります。平賀源内先生はここの竹を使った破魔矢を販売することを考えたらしいですねぇ。
一説には落雷が落ちた事があるらしいご神木。義興の霊は「自らの霊を鎮める神社」にすら祟るのでしょうか。
新田神社近辺に残る「怨霊の残り香」を探してみました。
祟られて殺された船頭を供養する「頓兵衛地蔵」は、いまだに義興の祟りのためか、いくら作り直してもボロボロと崩れてくるため、「とろけ地蔵」という別名があります。
とろけ地蔵の後方にはかつて水田が広がっていましたが、ここも義興に祟られていて、はまると出てこれない「底なし田圃」と呼ばれていたそうです。
遠江守が苦しんで死んだ場所とされる光明寺。本堂の前方にある「荒塚」は、遠江守を祀った塚らしいです。
遠江守が苦しんで死んだ場所とされる観音堂はここでしょうか。
遠江守が運ばれたと言われる光明寺の境内には「義興が切腹したとき投げた内臓」がかかった木があるらしいのですが、ボクの見た感じ、一番の候補がこれ。しかし義興は多摩川の上で切腹したはずなので、このあたりの辻褄はよくわかりません。
こちらも「遠江守が運ばれた」と言われる延命寺。江遠守が運ばれたため、落雷によりお堂が消失してしまい、その後、義興の沈められた船材で床板が作られたとのことです。
鎧兜を脱ぎ捨て川を泳ぎ、敵と戦った武将を祀る十寄神社。
御祭神としては、新田義興命、 世良田右馬助義周命、 井伊弾正左衛門直秀命、 大嶋周防守義遠命、 由良兵庫助命、 由良新左衛門命、 進藤孫六左衛門命、 堺壱岐権守命、 土肥三郎左衛門命、 南瀬口六郎命、 市河五郎命の名前が刻まれており、これ以外にも、自刃戦死者として大島兵庫頭義世・松田與市・宍道孫七・堀口義満の名が残されています。
十寄神社の裏にある塚に武将たちが祀られているということです。
土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎という、向こう岸にたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にした義興の部下を祀る「妙蓮塚三体地蔵尊」。ちなみに十寄神社の由緒書きにも彼ら3名は名を連ねています。
義興を守るために竹沢右京亮を裏切ったために惨殺された少将局を祀る女塚神社(オナヅカ神社)。昨今では「愛の神社」というちょっと口に出すには照れる別名で呼ばれ、カップルたちの参拝が絶えないらしいです♪