元和時代(1615‐1624)に澤蔵司(タクゾウス)という青年僧がいたらしいです。
後述するように諸説ありますが、一説には、澤蔵司は“太田道灌が千代田城(後の江戸城)を築城していた時に(1400年代前半から中盤)地中からでてきた『十一面観音像』を手に入れた”らしく、この像を持って洞窟に籠って修行をし『変幻自在の神通力』を身に着けたと言われてます。(東京妖怪地図/田中聡 著)
ま、いろいろ疑わしいですが、「そういう逸話が残るくらい凄いお坊さんが元和時代にいらっしゃった」ということで話を進めたいと思います♪
で、いまも東京(春日駅近く)に残る傳通院ですが、元和時代には「全寮制の仏教を学ぶ学校」のような位置づけだった「関東十八檀林」の一つだったようですねぇ。たくさんの修行僧が浄土教を学んでいたらしいです。
そこに元和四年(1620年)澤蔵司が入寮してきたとのことなのですが、彼は実に非凡な才能の持ち主で、わずか3年余りで「浄土教の奥義」を習得してしまったとのこと。
さすが「天才青年僧」なわけですが、それだけで終わらないからこの話は面白いのです♪
この天才青年僧「澤蔵司」は、一応、実在の人物のように伝えられていますが、先に書いた「神通力」の話もそうですが、かなり「ボク好み」の話も残っています。
例えば、澤蔵司はかねてから傳通院の近くの森に住み、「良くないことが起きるときには夜中に鳴いて知らせる白狐が人に化けた姿」という話もあるようです。(同 東京妖怪地図/田中聡 著)
別説では「澤蔵司は、太田道灌が千代田城内に勧請(カンジョウ )した稲荷大明神だ」とも言われています。(澤蔵司稲荷サイト)
そして、傳通院で修行を終えた澤蔵司がここを去っていったことに対しても、いくつかの逸話が残っています。
オトボケっぽい話としては、「寝ている間に尻尾が出ていることをうっかり同僚に見られてしまった」ので、恥ずかしくなり出て行った、というもあります。天才青年僧としてはかなりお茶目な結末です♪
澤蔵司稲荷の「正史」では「修行が終えた時期に、学寮長の夢枕に立って自分が太田道灌が勧請した稲荷大明神であり、大望していた『浄土の法』を得ることができたことを告げ、この寺を守護するので一社を建てて我を祀れとの言葉を残した」となっています。
澤蔵司は去る際に、上に書いた「十一面観音像」を残していき、いまでもそれは澤蔵司に祀られているらしいですねぇ。
澤蔵司を祀っている、通称『おあな』と呼ばれる霊窟。
これだけでも面白い話なのですが、さらに追い打ちをかけるような話が残っているのです!
澤蔵司は大の「蕎麦好き」で、修行僧時代から傳通院の近くにあった蕎麦屋によく通っていたということなのですが、なんとその蕎麦屋が今も残っているのです。
その店の名は『稲荷蕎麦萬盛』。ボクも実際に行って、澤蔵司が好きだったらしい刻んだ揚げが乗っているセイロ蕎麦を食べてみました。
澤蔵司は人間に化けた白狐だったわけで、お約束どおり“彼の支払うお金は木の葉だった”との言い伝えが残っていたので、お店の人に「それって本当ですか?」と聞いてみたのだが、「さあ、どうでしょうねぇ」との回答。
ここは「主人が子供の頃、お祖母さんから聞いた話だと、閉店後、売り上げを数えていると、お金の中に何枚かの木の葉が混じっていたらしいですよ」ぐらいのことは言ってほしかった気もしますねぇ。頼みますよ♪
一説には「澤蔵司が傳通院を去って森に帰っていった後も、この店には通っていた」とも言われているので、白狐の寿命を考えると今でも「木の葉のお札を持って」この店に通っていて欲しいものです。
傳通院の前に、澤蔵司(白狐の精霊)が住んでいたと言われるムクノキが今も残っています。(もう随分行っていませんが、今も残っているでしょうかねぇ)
このムクの木、戦火で上半分が 焼けてしまったので、切り倒そうという計画もあったらしのですが、その担当だった区役所職員が二人も不慮の死を遂げてしまい、当時の人は、白狐の精霊の祟りだと考えたようです。
澤蔵司が浄土の法を学んだ稲荷大明神だとしたら、区役所職員を殺すかなぁ? って思いますよね。やっぱり、澤蔵司はこの辺りに住んでいた「好奇心の強い白狐の霊」だったのでしょう。
日本においては「全知全能の神」というのはどうもシックリこないですよねぇ。「たまには良いこともするけど、基本は気まぐれな、霊力を持った存在」ぐらいが良いんです。
このムクノキ、結構な老木なのですが、ボクが訪ねたときは下の写真のように、まだ青々と茂っていました。
ボクとしては「いまでも白狐の精霊はこのムクノキに住んでいて、たまに人間に化けて葉っぱのお札を持って蕎麦を食べに行っている」ことに期待します。