於岩稲荷@四谷左門町
日本の怪談の中で文句なしの最高峰であろう四谷怪談のお岩さん。事実を基にした怪談ということもあり、今なお「事前にお参りに行かず四谷怪談を演じたために祟られた」など逸話が絶えないですよね。
意外と知らない人もいるようですけど、実は現在のお岩さんは「願い事を叶える神さま」として祀られているのです。
このあたりの感覚は、おそらく「日本人固有のもの」なんじゃないかと思うわけですが、今回はそれを考えてみたいと思います。
テーマパーク的演出が見事。陽運寺於岩稲荷@四谷左門町
実は、 日本には『深い恨みを抱いて死んだ人』を『神として祀る』ことで、その怨念を浄化させるという考え方が存在します。
その場合、その人の生前の『恨み』が強ければ強いほど(世間がその恨みを大きいものだと感じていればいるほど)、その人を「より格式の高い神へと昇華させる」傾向があるようですねぇ。
例えば、『天孫系の神(恐らくはその後の大和朝廷につながる勢力)』に『国譲り』した大国主命は、日本最大の神社である出雲大社に祀られているし、『新皇』を名乗り朝敵として討伐された平将門は『関東の守護』として神田明神に祀られているじゃないですか。
彼ら以外にも「謀反の疑いをかけられ左遷先で恨みを抱きながら死んだ菅原道真」も『学問の神様』として祀られていたりするわけです。こういった例は数えればキリが無いですよね。
田宮稲荷@新川
ボクは理系おやじなので『怨念』そのものが存在するとは思っていませんが、「怨念というものが存在すると信じている人々はたくさんいて、そのような人々にとっては、怨念が残ったままでは安心できないのだ」ということは理解しています。
そういう人々は「なんとかしてその怨念を浄化させたい」と考え、「怨念を浄化させるシステム」=「怨念が浄化されたと信じるための手法」として、「怨念にまみれて死んだ人を神にしてしまう」という文化を作り出したのではないでしょうかねぇ。
「死後、その人を神とすることで、生前その人が抱いていた恨みを浄化させる」ことは、ある意味、日本人の持つ『事なかれ主義的な辻褄あわせ』のように思えますが、いかがでしょう。
しかし、そのような考え方は日本の共同体社会を持続させる上で重要な考え方のひとつになっているのも、これまた事実なのでしょうねぇ。
妙行寺@西巣鴨
さて、四谷怪談で怨念の塊として描かれている「お岩さん」ですが、 現在、複数の神社仏閣に『お墓』があって、しかもそれぞれが「うちこそ本家本元」と主張しあっているのです。
このあたりの『お岩さんの墓をめぐる本家争い』は実に興味深いので、興味がある人は是非、調べてみてください。
それはさておき、それら複数存在する『お岩さんの墓』の全てが『願い事を叶えてくれる神さま』として祀られていて、人気の神社となっています。
実際のお岩さんがどのような人だったのかは諸説あり定かではないでが、先に書いたボクの説によれば、お岩さんが現在「願いを叶える神として祀られている」ということは、「世間の人々は“お岩さんは深い恨みを抱いて死んだ”と信じている」ということの裏返しに他ならないのでしょうか。
そう考えると、軽々しく「願いを聞いてもらおう」なんて気持ちには、ちょっとなれない気もします。なにしろボクはこの手の怨念話に対して、かなりのビビり屋なもんですから・・・。
於岩稲荷(手前)と陽運寺於岩稲荷とはこんなに近い場所にあり、それぞれ「本家」を主張し合っています。