モーゼ、モーゼです。なんか「ローマの休日」のラストのセリフのようですが、モーゼなのです。
そう、あの「十戒」のモーゼです。「出エジプト記」で海の水を割った、あのモーゼなのです。そのモーゼの墓が石川県にあるのですよ!
2016年の5月、新潟-富山-石川-長野-山梨とぐるっと回った「プチ放浪」において、唯一「目的を持って」訪れたのがこのモーゼの墓だったわけです。
恐らくほとんどの人は「何故、石川県にモーゼの墓があるんだ?」と思ったでしょう。 もちろんボクも同じ感想でした。そして、その答えは「竹内文書」という古文書の中にあるようなのです。
この「竹内文書」とは、もともとは太古の時代に神代文字で書かれたものを、武烈天皇(五世紀後半の天皇)の勅命により 翻訳され、それが昭和初期に 竹内巨麿という方によって初めて公開された古文書なのだとか。
五世紀後半の武列天皇の時代の次に、いきなり「昭和初期」と出てくるところに釈然とされない方々も いらっしゃるとは思いますが、ひとまずグッと堪えてくださいませ♪
「竹内文書」によれば、今からおよそ3430年前の「不合朝(あえずちょう)」の第69代 ・神足別豊耡(かんたるわけとよすき)天皇の時代に、モーゼは船で日本の能登にやってきたらしいですねぇ。
ここでも「不合朝なんて聞いたこと無いぞ」とか「神足別豊耡天皇なんて知らんぞ」という疑問が フツフツと湧いてきた方々も多いと思いますので、その解説をしてみたいと思います。
そもそも、「今から3430年前(およそBC1400年ごろ)」というのは、神武天皇の時代(諸説ありますが、一番古い説でもBC660年に即位)よりも800年ぐらい前の時代です。つまり初代の天皇(神武天皇)の800年前に「第69代天皇」が いたというわけです。
当然、この「第69代天皇」とは 神武から続く現在の天皇の系統とは違います。つまりこの「竹内文書」には、ボクたちが歴史で習った天皇の系統以前に、別の天皇の系統があったと書いてあるのです。
いやいや、議論は止めましょう。色々とおっしゃりたい事もあるかと思いますが、今はグッとこらえてください。
・モーゼは十戒の石板を神足別豊耡天皇に献上して承認をもらう。
・承認をもらう間、モーゼは天皇の第一皇女を妻にした。
・そして12年間、日本で修行した。
・その後、天空浮船(飛行船か?)に乗りシナイ山に戻った。
・そして聖書記載のように十戒を広めた。
・その後、日本に再来日した。
・583歳の長寿を全うし、宝達山の麓、三ツ子塚に葬られた
「竹内文書」によると、このような歴史があったようです。繰り返しますが「真偽についての議論」はしませんよ♪
モーゼパークなんて名称なので、ウキウキ・ランラン気分でモーゼの墓を見れるなんて思った貴方、 そう、そこの貴方ですよ、そんな考えだったらきっと痛い目を見ますぞ。 なにしろモーゼの墓なのですから。エジプトに捕らえられていたイスラエルの民を、苦難に満ち溢れた行程にもめげず、約束の地にまで導いたモーゼの墓なのですから。こちらもそれなりの覚悟を決めなければならないのは 言うまでもありませんですゼ。
入り口入るといきなりこの看板が!
ま、この手の看板は地方ではよく見かけるのですが、さすがはモーゼパーク、この看板からまたちょっと 森林に入ったところに今度はドカーンと「熊を捕まえるためのワナ」が設置されていたのですよ!
下の写真がそのワナなのですが、2メートル級の熊でも楽に入れるぐらいの大きさなのです! ボクとしては、もうこの段階でかなりギリギリです。でもモーゼの墓はそこからまだまだ山の奥の方にあるのです。まじで「帰ろうかなぁ」と思った程でした。
しかし折角ここまで来たのだからと、無意味な勇気を与えると同時に、熊を近づけない効力も併せ持つ「笑点のテーマ曲」を「ジャッジャカ、ジャカジャラ、ジャッジャ、プー、 ジャッジャカ、ジャカジャラ、ジャッジャ、パフー」と大声で唄いながら、なんとか辿り着いたのが一番上の写真の石碑でした。
帰宅後にサイトで調べると、上の石碑以外にもモーゼっぽいものはいくつかあるようなのですが、そのときは、この石碑の写真を撮った段階でもうピークを超えていましたので、より一段と大きな声で「笑点しながら」駐車場まで駆け下りてきたのです。はい、笑いたければ笑ってください。ま、そんな感じの「モーゼの墓」ツアーでした。 あ、くれぐれもボクに対して「モーゼの墓って本物なのか?」とか聞かないで下さいね。
かなり以前、これまた 自家用車で片道9時間以上かけて行ってきたことがある のですが、「竹内文書」によると「イエス・キリストは青森で死んだ」ということになっており、 実際に青森には「キリストの墓」があったりします。
こちらも同様に「キリストの墓の真偽」についてのご質問は一切受けませんので、念のため♪