上野のお山に寛永寺を建てたことによって住処を追い出された狐たちを慰撫するために、天海僧正によって祀られたのが、写真の 「穴の稲荷」(花園稲荷神社)なのだとか。つまり、この穴は「徳川家ご公認の狐」が住んでいたわけですよ!
そういう経緯であればこの穴にはたくさんの伝説が残っていそうなのですが、残念なことに花園稲荷神社のサイトを見ても、そのような話しがまったく書かれていませんでした。
神社のサイトをつくる際は、ご祭神がナニナニノミコトだと書くのと同じように、 境内に住むイタズラ狐が人を化かした話しとか、石像が夜な夜な騒ぐので名のあるお侍さんに退治してもらった話しとかも忘れずに記載して欲しいものです。いやむしろそれらの話しのほうが大切なくらいですよ♪
花園稲荷神社のサイトには書かれていなかったのですが、他の書籍などから入手した「上野方面に由来する狐の話」を紹介したいと思います。
◆谷中にあった伊呂波茶屋(イロハちゃや)という店では、客の前の杯や煙草鉢などがよく空中に浮かんだという。 ある日、火鉢にかかっていた湯の煮えたぎるヤカンが浮かび上がったのだが、突然落ちて湯が四方へ散った。それ以来、この店で物が浮かび上がることは無かったらしい。姿を消した狐がイタズラに物を浮かばせていたのだが、ヤカンに手を出し火傷をして懲りたのだろうと噂されたとか。
◆甲子夜話を書いた松浦静山の根岸の屋敷の木に止まったカラスに対して、上野の山からやってくる古狐が「その木の周りをグルグルと回り、カラスを飛べなくさせた」とか 「自分の頭を揺らし、カラスの頭も同じように揺らす」という術にかけてからかっていたらしい。
これらの狐が写真の狐穴とどう関係あるのかは不明ですが、当時の上野にはなかなか良い感じの狐が住んでいたようです♪
徳川家光が寛永寺を建てるまでは、上野の山にはウッソウとした森があったようですので、前述したように、この地に徳川家の菩提寺として寛永寺を建立した際には、数多くの狐が住処を追い出されたのでしょう。
狐が人を化かす能力を身に着けるきっかけというのは、こうした「人間によって自らの住処を奪われたから」なんじゃないかなと思うのです。 逆に言えば「文明によって狐は怪能力を得た」のではないでしょうか?
しかし文明が大きくなりすぎると、今度は狐そのものが生存できなくなってしまうわけです。つまり「人を化かす狐」とは「野生狐の繁栄において“末期に大きく灯る炎”のような存在なのだ」とか、それらしい事を書いてみたりして♪