【かつて関東は二分されていた】

室町時代の中頃、関東一帯に勢力を振るっていた秩父江戸氏の一族(河越氏、畠山氏、豊島氏、江戸氏、葛西氏、稲毛氏など)だが、一族内での内紛も絶えず、さらに北条氏、上杉氏、古河公方(関東足利氏)などの勢力展開があり、関東は決して単純な勢力構造ではなかったらしい。

そんな時代に起きた『長尾景春の乱』(文明8年(1476年)-文明12年(1480年))が決定打となり、東京は『景春側の豊島泰経』と『上杉家 太田道灌』との間で二分されてしまった。

そして現在も『その爪跡』はいまだに消えずに残っているのだ。

【豊島泰経と太田道灌の争いの爪跡】

歴史的にみれば “東京の二分化” は 『江古田・沼袋原の戦い(1477年)』で豊島側が敗退したことで終結し、東京は一つになったとされている。

上の写真は東京 中野区にある『江古田原沼袋古戦場碑』だが、昭和31年に東京都が『太田道灌 江戸築城500年記念』を行った際に、その一環として中野区が建てた碑だ。

これは“この地に残る、反・太田道灌気質の表れ”であり、皆が太田道灌の江戸築城を称えてハシャいでいる姿に対抗して建てられた、というニュアンスはゼロではないだろう。

伝説して残る「豊島泰経は黄金の鞍を付けた馬に跨り、華麗にそして潔く三宝寺池に入水した」とういう話も、「泰経はその後 転々と川崎方面に逃げ続け、最後は行方不明」という、道灌が書き残した『惨めな後日談』を否定したい、古くからこの地に住む人々の気概から生まれたのではないだろうか。

【かなり悲惨な戦争だったらしい】

江古田・沼袋原の戦い跡にはかつて、 当時の戦死者を葬った『豊島塚』と呼ばれた塚が点在しいた。それが区画整理のときに次々と潰されていったのだが、その際、たくさんの人骨が掘り起こされたらしい。

特に沼袋の『金塚』からはリアカー3台分もの人骨が出てきたというのだから、当時の戦いの凄まじさがわかる。

それだけすさまじい戦いだったということは、その戦いに敗れた豊島一族の怨念もまた、すさまじいに決まっている。なのでこのあたりは昔から、結構「でる」らしいのだ。

江戸時代には、豊島一族家臣の渡辺氏の呪いで、渡った者は死んでしまうという橋まであったらしく、昭和になってからも住民が悪夢にうなされることが多いなど、かなりインパクトの強い土地だったようだ。

そして、そのような戦死者の怨念を静める目的で建てられたのが、『江古田原沼袋古戦場碑』から新青梅街道を西に10分ばかり行った角を左にちょこっと曲がったところにあるマンションと商業ビルとの間に挟まれた一角にポツンとある『延命地蔵』や、その対面にある公園の中にある『豊島二百柱社』だ。

にぎやかな商店街近くにあるにもかかわらず、なにやら背筋が寒くなるようなマイナスのオーラを醸し出しているような気がしてならない。これはボクの単なる気のせいなのだろうか?

マンションの一角にある延命地蔵。

公園にある豊島二百柱社。