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●赤羽山脈を散策する


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1.地形マニアに大人気の凸凹

上の地形図でも一目瞭然ですが、JR赤羽駅の西側にはカッコイイ凸凹地形が広がっており、現在のような建築物が無かった時代では「凸部から眺めた景色」はさぞかし神々しかったことでしょう。

こうした地形は軍事的にも重要で、室町時代の後期には「築城の天才=太田道灌」が築城した「江戸の北の守護=稲付城」が置かれていました。

地形マニアにはおなじみのこの凸凹地形ですが、ボクはこれを「赤羽山脈」と名付け、凸凹具合を満喫してきたというわけです。(2024年7月20日)

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2.東京の北の守り「稲付城」

現在「稲付城」は城壁や堀っぽいものなども残っていないのですが、地図で見るとこの辺りは「なんとなく城っぽい形状」をしていますよね♪

地形図に現れる「稲付城跡の北方向の低地」には、現在「イトーヨーカドー」が建てられています。今回はその南側から(上の地図の番号順に)凸部へと登っていきたいと思います。

Photo(1):イトーヨーカ堂の駐車場を背にした写真。明らかにここから凸部が始まっています。

Photo(2):前の写真より少し西側からの写真。少し斜面がなだらかになっています。

Photo(3):前方の建物の向こうに「元 稲付城=現 静勝寺」がある感じ。

Photo(4):静勝寺の境内を眺める。赤羽のゴチャゴチャ感が嘘のような静かな空間です。

Photo(5):静勝寺の山門から赤羽駅側を眺める。実際は結構「高いなぁ感」があるんですよ。

前の石段を降りたところから、逆に山門側を見上げた写真です。

Photo(6):こちらが多分「静勝寺の正門」ですかね。

Photo(7):前の写真の門をググっとくぐるとこんな感じ。向かって左手前に「太田道灌座像」が祀られた「道灌堂」があります。

毎月26日に御開扉される「道灌堂」に祀られた「太田道灌座像」です。カラフルに彩色されたのは「昭和62年の発掘調査後」らしいですねぇ。(2024年7月26日撮影)

Photo(8):「静勝寺の正門」外から東側を眺める。結構な坂道です。

Photo(9):「静勝寺=稲付城跡」の凸部の西側の斜面上からの写真。良い感じの風景が広がっているんですよ。

「静勝寺の正門」から南に延びた道沿いで見つけた、絶景の庭を持つんじゃないかなぁと思わせる邸宅のお庭。

「静勝寺の正門」を背にして南に行った場所。左右に走るのが上の地図の「中坂」です。ここから更に高台になるのが分かります。

Photo(10):「静勝寺の正門」から南に延びる道を歩き、そこから東方向にニョロニョロっと入った狭い路地からの写真。「狭い路地から眺め」というのがグッとくるわけです。

前の写真の場所は写真左手の石段の上になります。この写真からもこの辺りの凸凹感が分かりますよね。

静勝寺(稲付城跡)

室町時代、扇谷上杉家に使えていた太田道灌が、北方向の守備のために築城したと言われる稲付城の跡地に「静勝寺」が建立されています。

昭和の発掘調査でこの地で発見された地下道は天正年間(1558年〜1582年)に掘られたことが判明したようで(太田道灌は1486年に死去)すが、具体的な「道灌築城時の城の遺跡」は残されているのでしょうか? ご存じの方は是非教えてくださいませ。

江戸時代に道灌の子孫によって静勝寺が建立され、今に至るわけですが、境内にはいまも建立当時に作られた「道灌座像」が「道灌堂」に祀られているのです。(道灌堂は毎月26日開扉されます)

道灌座像のはこんな感じで毎月26日のみ御開扉されます。

稲付の餅搗唄

現在の「赤羽西」あたりは江戸時代には「稲付村(いねつけむら)」と呼ばれていましたが、餅をつくときに歌っていた「餅つき唄」が今も歌い継がれているようです。これには「餅を練るときに歌った稲付千本杵餅練唄」と「餅をつくとき歌った稲付千本杵餅搗唄」とがあったのだとか。

大正12年(1923)9月の関東大震災の前後までは、ズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的慣行によって家々をまわり、これらを歌いながら各家々の餅搗きの手伝いをしたらしいです。

いまでも毎年初午(2月の最初の午の日)には、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする「道観山稲荷講の人々」による、餅搗歌を伝承するイベントが行われているようですよ。

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3.神々しい「香取神社」からの展望

一度「赤羽山脈」から東側に「下山」し、さらに元来た道を戻り「南の頂」を目指してきました。

東側の「麓」近くには、なんとも神秘的な「陀枳尼天社」があり、「南の頂」には「これぞ絶景地」とも言うべき「香取神社」があります。この「香取神社」からの眺めが最高なんですよねぇ♪

Photo(11):写真だと分かりずらいですが、スカイツリーが彼方に見えます。

Photo(12):上の写真の坂を降り、南側を眺めると更に凸部が広がっているのが分かります。

Photo(13):オッと! なんかいきなり凄いのが現れたぞ!

前の写真の場所に近づいてみると、ここから先が少し凸っているのが分かります。

この道が凸に挟まれた凸部だということがわかります。

Photo(14):大通りに出てグルっと回り込み「前の写真の仏塔らしきものがある場所」を覗きこんでみた写真。これこそが「陀枳尼天社」です。

「陀枳尼天社」の内部はこんな感じです。

塔の下にはこんな感じで、なんか神秘的♪

Photo(15):再び来た道を戻り凸部へと登っていきます。この道には「真正寺坂」という名が付けれれていました。

Photo(16):本日のゴールである「香取神社」に到着。

香取神社の境内。

何故か「真っ二つに割れている石板」。割れた理由を教えて欲しい♪

神社にはつきものの「力石」。ここには71キロから206キロの石があり、看板によると「小川留五郎という地元の力持ちが持ち上げた」と書かれていました。スゲーな留五郎さん!

Photo(17):香取神社の鳥居の外にある階段上からの写真。建物の無かった時代には凄く神々しい景色が見れたはず。

Photo(18):香取神社境内から鉄道方向を眺めた写真。本日の最高絶景地はここですかね!

Photo(19):(17)の写真の階段の下から上を眺めた写真。凸具合が分かりますよね。

hoto(20):香取神社の西側にある「法真寺」。「境内のお墓がある場所」は一段高い場所にある、グッとくる二段構造をしています。

陀枳尼天社

別名「稲付稲荷神社」。元は生きた人間を殺害してその肝を食す鬼女であった「陀枳尼天(ダキニテン)」を祀る神社です。この鬼女が御仏の力によって会心して神になったのですが、そもそもこの方は「人の肝でしか命を繋げない」宿命らしいんですよ。だもんで仏様より「半年先に命終する人間を予知する」通力を授けられ、命終の後に肝を取るようにと諭されたということです。

なぜこのような存在を祀るのかよく分かりませんが、ま、こういう信仰も「なんでもありの日本文化」の素晴らしいところなんですよねぇ。

香取神社

いわゆる「国譲り」において、武甕槌神(タケミカヅチ)と共に、大国主命に「国を差し出せ」と迫ってきた「経津主神(フツヌシ)」を祀る神社です。

総本山は千葉の香取神宮で、一説には「香取神宮は鹿島神宮とともに、大和朝廷以前からあった関東・東北一帯の国によって信仰されてきた(さらには「縄文時代からの信仰対象の流れをくむ」とも)」とも言われていますねぇ。

高台にヒッソリと建つこの香取神社、かなり神秘的な雰囲気に包まれた神々しい神社なんですよ!

 


 

こんな感じで「赤羽山脈」を縦走してみました。赤羽の凸部は今回のルートの更に北側にも、更に南側にもありますので、それらはまた別の機会に歩いてみたいと思います。