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両国駅 − 回向院 − 吉良邸 − 一ノ橋 − 万年橋 − 乳熊屋跡 − 永代橋 − 浅野家上屋敷跡 − 汐留橋跡 − 金杉橋 − 泉岳寺 − 泉岳寺駅

当時の赤穂浪士は(77歳の堀部弥兵衛さん含む)2時間足らずで歩いたらしいですが、当時42歳のボクは4時間強もかかってしまいました。



【赤穂浪士の歩いた場所を探索】

両国 回向院

完全武装した四十七人は、元禄15年の旧暦12月14日(1703年1月30日)深夜にここに終結したようです。当時は隅田川の東側は荒涼としていたため人目に触れずに終結できたのでしょう。

ネズミ小僧の墓

赤穂浪士とは全く関係ありませんが、回向院にはネズミ小僧の墓があります。墓石を削って持ち帰ると縁起が良いとの噂が広まり、現在では“削り取りようの白い石”が置かれています。


吉良上野介の屋敷跡

現在では記念公園となっていて、縁の品々が多数展示されています。

首洗い井戸

赤穂浪士が吉良上野介の首を刎ねた際、この井戸でその首を洗ったということからこの名がついています。

吉良家家臣二十士の墓

小林平八郎、清水一学らの墓です。最後まで主君を守るために戦った彼らだって、本物の忠臣だったのです。

両国橋は渡れなかった

両国橋の西側は江戸の町。 あだ討ちを行い血まみれで、首まで掲げていた赤穂浪士は、江戸に穢れを持ち込むのを防ぐために大川の東側を歩きました。


清洲橋の眺めが美しい

「ケルンの眺め」と銘打たれた場所からの清洲橋の眺め。この橋はライン河にかかる橋をモデルにしているようです。

赤穂浪士休息の碑

赤穂浪士たちは『乳熊屋(現 株式会社ちくま味噌)』と いう味噌屋の軒で休息を取ったそうですが、そのときに“甘酒を振舞った”と いう碑が残っています。


永代橋

討ち入り後の赤穂浪士たちは、 江戸の中心地を避けるために両国橋を渡らずに永代橋を渡ったようです。

浅野家上屋敷跡

現在の聖路加病院敷地内に「鉄砲州のお屋敷」と呼ばれた 浅野家上屋敷碑が建っています。

汐留橋跡

現在では典型的な“品川近辺のオフィス街”です。現在でもあまり人通りは多くないので、血まみれで歩いてもそんなに目立たないかも。。

金杉橋?

こういう風景を見ると、“東京は河川によって発展した町”だということが解ります。実に良い風景です。

ようやく泉岳寺に到着

ここまでだいたい4時間かかりました。もう足が棒のようです。

大石内蔵助像

享年45歳らしいのですが、実に大人な顔をしています。


血染めの梅と石

浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている(梅と)石だそうです。

首洗い井戸

吉良上野介の首はここでも洗われたらしいです。


大石内蔵助の墓

赤穂浪士の墓群がある敷地の一番奥にあります。(下記の地図参照)

最強戦士の墓

菅野六郎左衛門の助太刀として『高田馬場の決闘』に参加し、 “中山安兵衛の十六人切り(十八人という説も)”と語り継がれた 堀部(旧姓 中山)安兵衛の墓です。

決闘の直前にタスキを貸してくれたのが堀部弥兵衛の娘で、 これが縁で彼は弥兵衛の養子になり、 その後、その娘と結婚したようです。


【赤穂浪士をちょっと紹介】



●最年長赤穂浪士には驚くしかない

四十七人の赤穂浪士の中には、御年77歳という高齢の堀部弥兵衛()という御仁 (四十七士最強戦士 堀部安兵衛()の養父であり義父)がいました。

彼らは完全武装で吉良亭に押し入り、吉良の家臣と壮絶な戦いを夜通し行い、逃げ惑う吉良上野介を見つけ出しその首を刎ね、 そのまま一睡もしないで、現在の両国から品川の泉岳寺までわずか2時間足らずで歩いていったのです。もちろん重たい鎧兜や武器を身につけたままでです。

それにひきかえボクはデジカメ一台という身軽さでこの道のりを歩きましたが、いやー、キツかったです。膝、足首、脛、太ももなどがパンパンに腫れ、ジンジン痛み、日ごろの不摂生を嘆くと同時に、弥兵衛さんの健脚ぶりに改めて驚かされた次第でした。。。

●ただ一人、切腹を許されなかった赤穂浪士

四十七士の一人「寺坂吉右衛門()は足軽の身であるため、最初は吉良討伐の同士には入れてもらえなかったようですが、 その熱意に大石内蔵助もほだされ、討ち入りに参加することになった人物です。

ドラマなどでは吉良上野介を討った後、 泉岳寺に向う途中で脱盟したとして描かれることが多いですが、 これには「足軽が討ち入りに参加したことを公にしたくなかった内蔵助が彼を 逃がした」 「本懐を遂げたことを浅野家ゆかりの者へ伝える命を内蔵助から受けて伝令に 走った」 「寺坂は討ち入りにすら参加していない」などの諸説があり、 今も歴史の謎として、様々な意見が展開されているです。

他の四十六士たちが切腹した後には、 赤穂浪士の一人である吉田忠左衛門兼亮の娘婿で姫路藩士の伊藤十郎大夫に奉 公し、 後に江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめたとのこと。その後、宇都宮藩士 山内主膳家に仕え延享4年(1747年)に83歳の長寿 を全うし、ようやく念願かなって、泉岳寺に供養費が建てられました。

●更なる健脚の持ち主、「四十八番目の赤穂浪士」の墓がある

四十八人目のお墓は仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデルとなった萱野三平 重実のものですが、 彼は、内匠頭の刃傷事件をいち早く赤穂に伝えた人物で、 通常の旅人なら17日間、飛脚でも8日はかかるというのに、 なんと4日で伝えたというのです。

実は、萱野三平重は吉良討伐の義盟に加わるのですが、 家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害してしまいました。その死を 悼み、四十七士と同じ場所に墓を移されたとのことです。

赤穂浪士に関してボクが疑問に思っていることをコチラにまとめてみました。


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