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●花魁を救った左手をあげる招き猫


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1.招き猫のあげる手について

後付けのご利益論にモノ申したい♪

たいていの飲食店には飾られている「招き猫」。「福を呼ぶ」と言われる片手を上げている猫の置物ですが、この「上げている片手」が右手のものと左手のものとがあることはご存じでしたか?

この手の「ラッキーチャーム」には、商業主義と絡んでいろいろな「後付けご利益」が出てくるわけで、一説には「右手をあげる招き猫をはお金を招く」「左手をあげる招き猫は人を招く」と言われているようです。

この「上げる手ごとのご利益」の話は、中国の故事から来ているらしいのですが、それをそのまま日本の伝説に取り入れることは、「愛国主義者」で「実地調査主義者」のボクとしては、あまり納得できませんねぇww

日本にはいろいろな場所で「招き猫の伝説」があり、それぞれ皆、違った逸話が残されているのですから、「招き猫のご利益」だって、「それぞれの招き猫によって異なってくるはずだ」というのがボクの考えなのです。

例えば、東京でおそらく一番有名な招き猫である「豪徳寺の招き猫」は「近くを通りがかった井伊直孝を寺に招き入れ、そのことによって直孝自身は雷雨から身を守れ、寺としては、そのことが縁で経済的な援助を受けることができた」という伝説が残っているわけですから、「招かれた人にとっては災難防止のご利益」があり、「招いた側にとっては富の繁栄のご利益」があったわけです。

なので「豪徳寺の招き猫(右手をあげています)」をお店に置くことで、来客したお客さんからは災難を遠のけ、お店には富を招く、というのが、ボクが考える「豪徳寺の招き猫のご利益」なのです。

なので、右手だ左手だという前に、逸話を考察したい。

上に書いた見出しこそ、ボクが言いたい事のエッセンスなのですよ。どうも「見た目だけで分類したがる輩」というのが多いのですが、「見た目=現象」は「本質が表れた一形態に過ぎない」ということを理解してもらいたいのですねぇ。

「見た目で分類する」という愚行は「文系」「理系」に限らず、よく行われてしまうことですが、やはり「なぜそのような状態にあるのか」を考えることこそ「科学」なわけですよ。

ま、招き猫があげる手で、こんなにも熱くなる必要はないのかもしれませんけどね。

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2.西方寺の招き猫は左手をあげている

これまでに書いたことを踏まえて、あらためて今回紹介する、東京都北区西巣鴨にある西方寺の招き猫について、まずはその形態から説明したいと思います。

上の写真の通り、この猫は「左手を上げている」わけです。

しかしこの猫には、「俗説」が語るような「人を呼ぶ」という伝説が残っているわけではありません。次の「3」に書きました通り、この猫は「飼い主を災難から救った猫」なのです。

西方寺では「招き猫の置物」は販売されてはいないのですが、もし、興味のある方が「西方寺の招き猫を3Dプリンターで作った」場合には(w)、災難防止のお守りとして使っていただきたいものです♪

では、この西方寺の招き猫に「どんな逸話があるのか」について、説明していきたいと思います。

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3.薄雲太夫にまつわる伝説が残っている

西方寺のサウスポー招き猫には、薄雲太夫という、猫をとても可愛がっていた吉原の花魁にまつわる言い伝えがあるのです。

その話を簡単に説明します。

あるとき太夫が厠(要はトイレ)に行こうとすると、 太夫の飼い猫が太夫の着物の裾をつかんで放しませんでした。その時の猫の形相が、あまりにも恐ろしかったらしく、太夫は大声で助けを呼んだのだそうです。

その声を聴いて駆けつけた男は、すぐさま脇差を抜いて猫の首を切り落としてしまったのだとか。

すると切られた猫の首は厠の下に飛んでいき、 厠の下に潜んで、今にも太夫にとびかかろうとしていた「大蛇」に食らいつき、見事に噛み殺したということなのです。

つまりその猫は「蛇がいるからそっちへ行くな」と太夫の裾をつかんでいたというわけなんですねぇ。

そのことに気が付いた太夫は、 自分を救おうとした猫を殺してしまったことをとても後悔し、それでこの西方寺に猫塚をつくり招き猫の像を祀ったということなのです。

これが西方寺の招き猫の謂れです。この太夫にもう少しゆとりがあれば、この猫は殺されずにすんだのですよねぇ。なんとも可哀そうな話じゃないですか。

どこまでが本当の話で、どこからが作り話なのかは、皆さんの妄想にお任せしますが、花魁に限らず当時の吉原の遊女というのは、見かけの華やかさに隠された「悲惨な生活」を送っていた場合がほとんどで、たいていは病に冒され「投げ込み寺」に捨てられたり、店からの折檻などで亡くなったり、自殺したりした方も多かったという話も聞きますので、この猫の話も、そうした「悲惨な話」を「別の形で伝えた逸話」なのかもしれません。

例えば、太夫と駆け落ちしようとして、店の用心棒に首を切り落とされた男の話から生まれた逸話かもしれないじゃないですか・・・。

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4.浮世絵にも描かれた超有名な花魁だった

なぜか「高尾之墓」と書かれている・・。理由はよく判りませんが・・・。

ちなみに、この薄雲太夫は元禄年間(1688〜1704)に実在した方らしいです。

長野県坂城町出身の遊女で、 江戸新吉原京町一丁目の三浦屋に席を置き、同時代の高尾と並び名妓と称された超有名人で、本当に猫が大好きだったようですねぇ。

薄雲太夫という名跡は何代か続いているようですが、西方寺に祀られている方は二代目の薄雲太夫だという説がありました。

この薄雲太夫が「玉」という名前の飼い猫とともに描かれた浮世絵も、なんと数多く残っていて、ググるとそれらしきものが出てきますよ。

最初、吉原と西方寺がある西巣鴨とはだいぶ距離が離れているなぁ、と思って調べてみると、この西方寺、もともとは浅草聖天町にあったらしく、明治24年に現在の地へと移転してきたとのことです。なるほど納得いたしました。