東京亀有といえば「ジャンプ世代」にとっては「こち亀」ですよね。かつては亀有公園の前には本当に交番があったようですが、そこからそれほど遠くないところに「こち亀」以上にファンタスティックな伝説が残る「見性寺」があるのです。
見性寺は「観光客が見学するようなお寺」ではないのですが、その境内(の中にある小さな庭)には、上の写真のような「貉塚」があります。
「貉」は「ムジナ」と読みますが、正直、貉と狸との区別はボクにはつきません♪ 貉はアナグマの仲間(イタチ科)で、狸はイヌ科というのが定説ですが、地方によっては全部まとめて「ムジナ」と呼ぶ場合もあるようですし・・・。
ま、それはさておき、その貉をわざわざ塚に祀ってあるというのですから、結構、面白い逸話があるに決まっているますよ♪
時は明治29年、田端から土浦まで鉄道は引かれていたようですが、走っている列車は、まだ1時間に1本あるかどうかというぐらいだったようです。これはそんな時代の話です。
ある時、地元住民の間で「なんか、最近よく列車を見かけるけど、本数が増えたのかねぇ」なんて会話が目立つようになったのだとか。でも、鉄道局に尋ねても、そんなことは無いという回答を得るばかり。
そんなある日、線路の脇にムジナの死骸が見つかったのです。
そしてそれ以降、列車の本数が以前と同じようにマバラになりました。当然のことながら地元住民の間では「きっと ムジナが列車に化けていたに違いないダラ」 「そうズラ、そうズラ、それで本物の列車にはねられたズラ」 「そうだっぺ、そうだっぺ」 という噂が広まったのでしょう。
当時、この地でそのような方言があったかどうかは知りませんけど・・・。
方言はともかく、こんな逸話が残っているなんて、実に素晴らしい時代だってようですねぇ。「科学と迷信との融合」が自然に行われるのが、近代文明の黎明期の特色です!
その時に「列車に轢かれた貉」を祀っているのが、先に説明した「見性寺」の「貉塚」というわけなのです。
だいたい“小さなムジナが大きな機関車に化けた”と いうこと自体に無理があるのですが、実はこの手の話はこの時代によくあったらしいのです。
調べてみると、この“亀有パターン”の他には、 正面からこちらに向かって逆走する列車が現れたのに気づいた運転手が、あわてて急ブレーキをかけたら、その機関車はいつのまにか消えていて、 「ああ、もしかしたら、 あれはムジナの化けた列車だったに違いない。」というのがありました。
冷めた現代風に解釈すれば、「運転手が居眠りでもして夢でも見てたんだろぉ、ケシカラン。」 なんてことにも なりかねないのですが、幸いにも当時は まだ人の心に怪猫狐狸に対する畏敬の念が残っていた時代だったのです♪
で、たまたま線路の脇に ムジナの死骸でも見つかれば、「これはきっと列車に化けて遊んでいたムジナが、 誤ってはねられて死んでしまったんだろう、カワイソウニ。」なんてことになったのでしょう。
見性寺のムジナ以外でも、高輪八ツ山下のタヌキ、品川近辺の権現山に住むタヌキ、鶴見近辺の裏山に住むタヌキ、 五反田のキツネなど がやはり機関車に化けたとの伝説が残っているようです。
いやー、実に良い時代だったようです♪
葛飾文化の会が編纂した『葛飾百話』を調べてみると、次のような話が載っていました。
昔、狸の腹づつみの名人として知られた、多聞寺の狸がおってなぁ、 それはそれはすばらしい腹づつみを打ったもんだで。
だけんども、いくら名人といっても年には勝てねぇ。 もう自分は引退するからって言ってなぁ、次の腹づつみの名人を 決める大会を開くことになっただよ。
そんなときに一番の次期名人の呼び名が高かったのが、 亀有に住む親子三人のムジナでよぉ、この親子が名人を目指して 当時作られたばっかりの常磐線の線路の上で、 腹づつみの猛練習をしていたんだと。
だども可愛そうなことによぉ、腹づつみの練習中に機関車にはねられて 死んでしまったのよなぁ。亀有の村人はこのムジナの親子を哀れんで、 手厚く葬り供養したってわけさねぇ。それが今も見性寺に残っている狢塚さねぇ。 とっぺんぱらりのぷ。
ま、表現は全てボクのオリジナルで、ホントはこんな文章じゃないんですが、内容的にはこんな話でした♪
ところで、興味深いことにこの話には後日談があるのです。
その後日談とは、この元祖腹づつみ名人の狸さんはこの後、 毘沙門天の使いに戦いを挑み、 こちらも哀しい最後を遂げるというものでした。
これってまさに、以前ここで紹介した「毘沙門天に退治された大狸」のことですよね。なんかボクの研究(w)がつながってきたぞ!
地域ごとの伝説がクロスオーバーしているところに、当時の文化交流を見ることができますよね♪