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●芝山古墳の埴輪の謎とは


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1.芝山古墳群にある「はにわ博物館」

古墳レプリカの写真

千葉県芝山町は東京からは車で1時間ちょいの場所にある のどかな田園地帯なのですが、千葉県でも有数の古墳の密集地で、なんでも500基もの古墳が見つかっているらしいのです!

「殿塚」「姫塚」という古墳の発掘が昭和31年に行われ、数多くの大型で造形美あふれる人物や動物の埴輪が数多く出土されましたが、その埴輪というが結構曰くありげなんですよねぇww

はにわ博物館の写真

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2.ユダヤ人を模したと言われている埴輪たち

ユダヤ人っぽい写真

これらの埴輪が「もみあげを長く伸ばしカールしている」「尖がった帽子を被っている」という「ユダヤ人的なたたずまい」のため、「アッシリアによる北イスラエル王国征服(紀元前8世紀)や、バビロニアによる南ユダ王国征服(紀元前6世紀)により中東を追われた古代イスラエル民族が、長い年月を経てこの地を訪れ、その文化・文明を伝えたのでは」とする説があるようですねぇ。

真偽のほどはともかく、 皆さんにはこの埴輪、どう見えますか?

ユダヤ人っぽい写真

ユダヤ人っぽい写真

ユダヤ人っぽい写真

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3.芝山古墳の埴輪は何者なのか

芝山古墳埴輪トーテムポール

当時の東日本は渡来文化の影響が少なかったと思う

渡来者による土木技術によって作られたとされる仁徳天皇陵(5世紀中盤に建造)などの「西日本の古墳」と比べると前時代的な構造をしていることから、芝山古墳(6世紀)などの「東日本の古墳」は、渡来者による影響が無い(もしくは少ない)のだと思います。つまり6世紀の東日本には、(既に5世紀中頃には西日本に導入されていた)渡来文化・文明はまだあまり導入されていなかったのでは、と思うのです。

つまり、「ユダヤ人が古墳時代に大規模に渡来してきたかどうか」は別として、「当時の東日本は西日本と比べ渡来人からの影響が少なかった」のではないでしょうか。そういうことからもボクは芝山古墳は「比較的、源日本的な文化が現れているのでは」と思う次第なのです。

三角帽子の埴輪だけが「変わっている」とは思えないのです

ボクの完全なる主観ですが、長い間この埴輪を見ていたら「ユダヤ人を模したと考えなくても良いんじゃないの」と思えてきたのですよ。三角帽子の埴輪に限らず、全ての埴輪の形状が「現代日本人の装飾」や「現在の表現方法」とはほど遠いじゃないですか。なので「当時の装飾はこんなもんだった」「当時の表現方法はこんな感じだった」ってとらえた方がスムーズじゃないですかねぇ。

下記は「当時の人の想像模型」ですが、個人的には、当時の日本人がこのような装いだったとしても別に不思議じゃないですし、この姿を表したのが「例の埴輪」だと考えても良いんじゃないかなぁと思うのですが、皆さんにはどう思いますか。是非、現地でじっくりと確認してみてください。

芝山古墳人

以下の彼ら・彼女らだって、相当「変わっている」と思いますよ
芝山古墳人

芝山古墳人

芝山古墳人

芝山古墳人

芝山古墳人

ま、こんな感じで、「三角帽子の埴輪」以外にも「変わった形状の埴輪」なんてたくさんありますし、むしろ「埴輪って変わった形状をしている」わけなんですよ。

そもそも「埴輪は人間を写実的に表したモノ」ではなくて、「その人間の雰囲気や社会的な立場を抽象的に表したモノ」なんじゃないですかね? ていうより「全ての創作物というのは、創作者の思考を具現化したモノ」だと思うのです。

なので「帽子が尖っていて、髪の毛が三つ編みにしているからユダヤ人を模倣している」って考え方自体が、思考停止状態のような気がしてならないのですが・・。ま、この埴輪の解析は今後の研究成果を待ちましょう。