吉良上野介の屋敷跡: 現在では記念公園となっていて、 縁の品々が多数展示されています。
ボクと痛風との付き合いは、ボクが30代後半からだからもう20年以上にもなりますww
治ったかなと思うと、また深酒をして足が痛くなり、しばらく禁酒する、というサイクルをずーっと続けてきたのですが、 痛風になるとボクの人生の楽しみの大きな部分を占める「散歩」ができなくなってしまいますからねぇ、今回こそ本気で痛風を治させる決意をしたのですよ!
そこで、まだちょっと足のくるぶしは腫れているのですが、「完治具合を確かめる」ために、赤穂浪士が討ち入り後に歩いた「両国 回向院から高輪にある泉岳寺までを歩いてみる」という「テスト歩行」をしてみることにしました。
赤穂浪士たちは一晩中戦った後に、重い甲冑を身に着け武器を持ったまま、2時間ちょっとでこの距離を歩いたようですが、ボクの場合は写真を撮ったり道草したりして、のんびり歩いてみたいと思います。目的は「痛風発作が起きずにちゃんと歩ききれるかどうか」ですからねぇ。
で、初夏の雰囲気漂う2021年の良く晴れた日の日曜日にこの地を訪れたというわけです。吉良邸到着は午前10時50分ごろでした。(ポイントごとに時刻を記載したいと思います)
吉良上野介の像:家柄の良さが漂う表情ですねぇ。三河国にある領地では名君と呼ばれていたらしいです。
後に「討ち入り後に両国橋を渡る赤穂浪士」の浮世絵が飾られていますが、実際は「血なまぐさい身体で江戸市中には入りたくない」という理由から、両国橋は渡らずに、後述するようなルートをとっていたようです。
松の大廊下での刃傷:超有名なシーン。吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭を羽交い絞めしたのは「梶川与惣兵衛」という旗本らしいです。
何故、浅野内匠頭は刃傷沙汰を起こしたのかについて、もっとも事情を知っているのが梶川与惣兵衛だという説もあり、彼についての書籍も出ているようです。今度、調べてみたいなぁ♪
浅野家家臣の碑:夜中にいきなり「武装し殺気立った男たち」に襲われたのですから、彼らの視線で見れば「忠臣蔵」というのは「ジェイソンの13日の金曜日」と同じようなものだったのでは・・。碑には「小林平八郎」「清水一学」といった、「歴史は時代劇でしか知らん」というボクでも解る有名な「剣士」の名前が刻まれています。
首洗い井戸: 赤穂浪士が刎ねた吉良上野介の首をこの井戸で 洗ったらしいです。ま、オカルトファンには定番の場所ですよね。(写真は数年前に撮ったもので、現在は完全に井戸が覆われていました。)
両国 回向院: 元禄15年旧暦12月14日 (1703年1月30日)深夜に、当時は荒涼としていたこの場所に 完全武装した四十七人終結したらしいですね。そして討ち入り後もここで身なりを整えて泉岳寺へと向かったのでしょうか。なので、ボクは回向院を今回の「テスト散歩」の出発点にしました。
ネズミ小僧の墓: 赤穂浪士とは無関係ですが、ここに来たらまずはこれを見ないと。削って持ち帰ると縁起が良いと言われる墓石で、現在では“削り取りようの白い石”が設置されていますが、ま、削ろうとしても「石の粉」がでてくるだけで、削り取れるようなものではないです。
力塚: 回向院入り口すぐにある、なんとも力強い碑。是非ともあやかりたい。
多分ペット供養かなにかの碑でしょうね。
江戸時代の魚屋「利兵衛」さんが病に伏したときに、彼からいつも魚を分けてもらっていた猫が「小判を届けた」という伝説があるようですが、その猫を祀ったお墓。いやー、東京ってこういう伝説があちこちに散らばっていて凄く楽しいんですよねぇ。
回向院を堪能し、いよいよ長い道のりを歩き始めます。回向院を出発したのが11時12分でした。
一の橋通り:回向院を出て14号線を左に曲がりそのまままっすぐ進めば「両国橋」ですが、赤穂浪士たちは、隅田川の手前で左に折れ「一の橋通り」を南下していったようです。
これは「両国橋をそのまま超えて泉岳寺を目指す」と、血なまぐさい姿のままで江戸の真ん中を抜けていくことになってしまい、それを避けるためだったようです。
「一の橋通り」は江戸時代には物悲しい場所で、「片葉の葦」という「怪談話」もあったような場所ですから、人目を避けて歩くにはちょうどいい道だったのでしょう。
一の橋:「本所七不思議」である「方葉の葦」はこの辺りにあったようです。「お駒」という女性に片思いした「留蔵」が彼女の片手片足を切り落とし殺害したのがこの辺りで、それ以来このあたりの「葦」は片方にしか葉っぱが付かなくなったという話です。
掘割が続く道:本所から隅田川へは何本もの掘割が作られていますので、橋が多いのもこのあたりの特色です。鉄骨とコンクリートとのコラボは、理系オヤジの魂をくすぐるんですよねぇ。
橋の残り香:正式名称はなんていうのだろう? 「橋跡」でいいのかな? こういうのを見つけると嬉しくなりますねぇ。
平賀源内電気実験の地:前回、白鬚橋の西側で「平賀源内生誕の地」の碑を見つけたけど、ここは「エレキテルを使った場所」なのかな? この人、「新田神社」でも「平賀源内が破魔矢を作った」とかいう碑があったりと、散歩のたびに名前が出てくる♪
赤穂浪士休息の碑: 赤穂浪士はここまで歩いて、この『乳熊屋(現 (株)ちくま味噌)』の軒で 休息を取り、甘酒を飲んだらしい。残念なことに周りには「甘酒カフェ」も「甘酒販売所」もなかった。当然作るべきだと思うのですが・・。
永代橋:
ここまではあまり道草することなく、12時ジャストでこの橋に到着しました。嬉しいことに「痛風」はちっとも痛くないんです♪
赤穂浪士たちはこの橋を渡り、浅野家の上屋敷があった鉄砲洲方面に歩いたようなので、ボクもそれっぽい道を歩いていきたいと思います。
永代橋を渡り隅田川沿いを南下してみました。このあたりの「鉄砲洲」の名前の由来は諸説ありますが一般的なのは「このあたりで大筒の稽古を行っていたから」というもの。そんな訓練ができるぐらい閑散としていた場所だったのでしょうか。
ここでも「橋跡」を発見。かなり保存状態が良く、これからも大切に保存してもらいたいなぁ。
こんなものがビル街に残っているということが、この街の価値をグーンと上げているのです♪ 12時30分ぐらいから13時30分ぐらいにかけて、かなりこの辺りをうろつきました。
川沿いから少し内陸に入ると、その名もオサレな「聖路加病院」がそびえ建っています。いっきにブルジョワジー度合いが高まり、清楚な奥様たちが乳母車を引いて歩いていましたっけ。ボクにとってはちょっと「場違い風味」が高かったですが、奥様達の脇をホームレスがキャスターを引いて抜かしていくのを発見し、ほっと胸をなでおろしましたww
浅野家上屋敷跡: 聖路加病院内に『鉄砲州のお屋敷』と呼ばれた記念碑が建っています。赤穂浪士たちはこのお屋敷の近くを通ったと言われていますが、どういう心境だったのでしょうか。時刻は13時50分。その後この辺りをすこしぶらつきアイスコーヒーを飲むためにちょっと休憩。
築地本願寺: 聖路加病院を銀座方向に進むと見えてきます。ここには「翼のある狛犬」など、かなり尖がった動物オブジェがあり、これはまた別途紹介する予定です。カフェや劇場が併設されていて、かなり面白いお寺です。
歌舞伎座: 築地本願寺からさらに内陸に入ると超おなじみのこの建物があります。ボクは「超歌舞伎」以外、見たことがないのですが、歌舞伎にも幽霊や物の怪が出てくる話もあるので、その手のものから見てみたいと思います♪
和光の時計台: 初代ゴジラをはじめ、いろいろな巨大生物や宇宙人に破壊された時計台。初代のゴジラの身長は、だいたいこの時計台サイズだったので、時代を超えてヤツもだいぶデカくなっていったというわけですねぇ。時計台あたりで14時40分。ここから銀座8丁目方向へと進んで行きました。
新橋駅南側のガード下: 銀座から歩いてきたのに、この辺りに来たとたん、いきなり「プロレタリアート味」が濃くなってきました♪ 鉄骨の感じもとても味があって、確実に昭和が残っている街です。ここから国道15号線に入っていきます。時間は15時05分。
地味な道がずーっと続きそう: 当時は人通りの少ない道だったんでしょうけど、いまでは典型的なオフィス街なので、血の匂いをぷんぷんさせながら武装集団が歩いていたら、かなり目立つこと言うことなし。散歩していてもあまり面白くない道がずーっと続きました。
裏道に入れば面白そうな道がある: 大門近辺の裏道にはこんな感じの商店街もあって、これはこれで楽しめる。しかし「コロナ禍真っただ中の2021年5月」、ほとんどの店は閉まっていて、なんていうか、つまんないというか・・。
金杉橋: 凄い良い感じの橋! この上流に磯貝十郎左衛門の病身の母と兄がいたけど、 「兄の主君に迷惑がかかる」として立ち寄らなかったらしいです。
港勤労福祉会館:根っからのプロレタリアート気質なボクにとって、なんかホッとするような建物。「港勤労」の文字にはロマンスら感じてしまいます。 。
釜鳴り:「都内で唯一釜鳴り神事が今でも行われている」という「御田八幡神社」です。5月15日にその神事があるとのこと。で、釜鳴りって何するの? ボクのイメージでは、皆が持ち寄った金属調理機(鍋など)を「ガツンガツン」と叩きながらトランス状態になって騒ぐ、という感じ。たぶん違っていると思うけど。
泉岳寺:
ようやく到着したのは17時03分。直前で飯を食ったり、コーヒー飲んだりと、最後の15号線直線でかなり時間を費やした感じ。回向院を出発したのが11時12分だから6時間弱もかけてしまった。
しかし痛風の発作は起きていなくて、「痛風が治ったことを確認するため」という今回の散歩の目的からみれば、「なんか治ったかも」という感じでした♪
泉岳寺のほぼ半分は「赤穂浪士アイテム」で占められている感じ。ボクや同業者(w)にとっては無料で楽しめるテーマパークという感じです。
大石内蔵介像: 討ち入りを計画している時の姿らしいので、(享年である)45歳よりも若いということになるのだろうけど実に大人な顔だ。今のボクより、少なくとも10歳以上も若いなんて信じられない。凄いなぁ、昔の人は。
血染めの梅と石: 浅野内匠頭が田村右京大夫邸で切腹した際に、 その血がかかったと言われる梅と石。切腹後にここに運んだってこと?
首洗い井戸: 赤穂浪士たちに運ばれた吉良上野介の首はここでも洗われたのだとか。その首、最終的にどうなったんだ?
この先に赤穂浪士たちのお墓が並んでいます。切腹した四十六人(後述するように寺坂吉右衛門は切腹していません)だけでなく、いろいろ伝説がある「寺坂吉右衛門」と、いろいろ事情があって討ち入りには参加できず切腹した「萱野三平」のお墓も併設されています。
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大石内蔵助の墓(以前撮った写真): 赤穂浪士の墓群がある敷地の一番奥にあります。
最強戦士の墓: 『高田馬場の決闘』でも『十六人切り』をした堀部(旧姓 中山)安兵衛の墓。戒名は「刃雲輝剣信士」、いかにも最強戦士にふさわしい名前です。
萱野三平の墓:
戒名は「刃道喜剣信士」。彼は浅野内匠頭の刃傷沙汰を江戸から赤穂(兵庫県)までわずか4日で到着した(飛脚ですら8日かかる)という伝説が残っています。
しかし、吉良家と関係もある家柄であったため討ち入りに参加できず、忠孝の板挟みで切腹したという悲運の人。でもこういうのって同じ日本人としてじんわり解る気がしますねぇ。後に赤穂浪士たちとともに祀られるようになったというわけですが、この地で祀られることで、彼の魂が安らいでくれたことを心から祈る次第です。
寺坂吉右衛門の墓:
戒名は「逐道退身信士」。彼もまた悲運の戦士。ドラマなどでは討ち入り後に「逃げた」という描かれ方をする場合もありますが、討ち入りの浪士たちの中で唯一「足軽」であっため、「足軽を討ち入りに起用した」ということを知られたくなかったために逃がされた、という話も残っているようです。「討ち入りというのは上級武士が行うもので、足軽風情に行わせたとあっては、お家に傷がつく」という感じだったのでしょうか。
彼がその後、世間的に厳しい目に合っていたことは容易に想像つきます。83歳で天寿を全うし、かつての同志たちと同じ場所に祀られることで、彼の魂は安らいでくれたことを心から望みます。
今回は「痛風が治ったかどうかを確認する」ということを目的として、両国の回向院から高輪の泉岳寺まで歩いてみました。だいぶ道草をしたので、だいたい10数キロの道のりだったと思いますが、痛風の発作は起きなかったというのがとても嬉しい収穫です。
赤穂浪士たちは一晩中暴れまわった翌朝、重たい甲冑や武器を携えて、2時間余りでこの道のりを歩いたらしいので、彼らの健脚には恐れ入りますねぇ。特に、この浪士たちの中には、前述した「堀部安兵衛」の養父「堀部弥兵衛」がいたのですが、その時の彼の年齢(満年齢)はなんと76歳です!
この堀部弥兵衛さんや、前述した「江戸から赤穂まで4日でたどり着いた」萱野三平さんには、とても憧れを抱いてしまいます。ボクもかくありたいと願っています。
この「痛風が治ったかどうかを確認する散歩」は実に面白かったので、次回もやってみたいですねぇ。次は20キロぐらい歩いてみたいと思います♪