東京都文京区は「武蔵野台地」の東端にあたる場所で、河川に削られて「四つの台地」が形成されています。一般的な名称ではそれぞれ「白山台地」「本郷台地」「小石川台地」「関口台地」と呼ばれているようです。
赤枠の中の「右下の方」にある「道路がクロスしている部分」が「本郷三丁目駅」がある場所で、縦方向の道が「本郷通り」で横方向の道が「春日通り」です。
江戸時代に犯罪を犯した者が「江戸所払い」になると、この十字路よりも北側に追放されるということで、まさにこの辺りは「江戸の境界線」と言えるような場所だったのでしょう。
この十字路の左下側(南西側)には江戸時代から「かねやす」という名前の薬屋があり、当時の川柳でも「本郷も兼康(かねやす)までは江戸の内」と歌われていたのだとか。
「かねやす」は今でも残っています。薬屋じゃないみたいですが。
江戸時代後期から明治大正昭和にかけて、この近辺は文化的な香りが漂う土地でした。樋口一葉や宮沢賢治などの文豪たち所縁の場所であり、日本の頭脳が集まる(w)東京大学もこの地にあるのです。
今回はそんな「本郷通り」「春日通り」「白山通り」「言問通りの西の道」で囲まれた凸凹地区を探索してきました。(2022年3月26日)
白山通りにある「春日駅」から東の方角に伸びる路地の先が急こう配の階段になっていて、そこを上がると「清和公園」という高台に出れます。ここには「右京山」という立て札も立っていますが、実際の右京山の最高地点はここから南東に結構登っていった所にあります。(このページ最後に掲載している地図をご参照ください)
清和公園から南に行った場所にあるビューポイントです。特に名称は無いようですが、曲がりくねった道の先にある階段というのは、冒険心をくすぐってくれる良い場所ですねぇ♪
恐らく「右京山」の最高峰はこの辺りだと思います。この坂道には「炭団坂」という名前が付いていて、その由来を調べると「なるほどねぇ」という感じです。(調べてみてください♪)
「右京山」の由来は「上州高崎藩主である大河内家松平右京亮の中屋敷があった」ということらしいですが、このあたりの最高峰地区に、いまではブルジョワ風味のマンションが建てられています。見晴らし良さそうだなぁ。
春日通りを登っていて見つけた階段です。こういうのを見つけるとこのあたりの地形の複雑さを肌で感じることができ、嬉しくなってきますねぇ。
言語学者として有名な金田一京助・晴彦親子が住んでいた家だそうです。ここの坂道には「鎧坂」という強そうな名前が付けられているのです!
事業家で「セメント王」と呼ばれていた諸井恒平という方の旧邸宅らしいです。ボクは初見のお名前だったので、「セメント王」という「通り名」から「前田日明選手」を連想してしまいました♪
来年還暦のボクが幼少の頃にはなんとなく残っていましたが、路地の入口にこういう「木戸」の名残があるなんて、今では本当に貴重ですよね。
樋口一葉が一時期住んでいた場所らしいです。この井戸、いまだに水が出るようですよ!
菊坂と並行で伸びる路地です。数年前にはレトロな床屋さんとか銭湯とか残っていたのですが、少しずつ昭和の残り香は消えていくんでしょうか。。。
左側が「宮沢賢治 旧居跡」のようです。「注文の多い料理店」に収められたいくつかの作品がここで書かれたのだとか!
路地から菊坂方向を眺めた写真です。良いでしょ、この家♪
以前はここで「古道具」などが売られていたような気がします。カラフルなドアがボク好みです♪
ホントいい家が残っているんですよ。同業者の方がカメラをぶら下げてうろついている路地です。
かつてこの地を散歩したときはまだ銭湯があって、ボクも入ったことがありました。今回尋ねたらなんと「瓦」だけが残っていたのです。昭和がどんどん消えていきますねぇ・・・。
菊坂にある「火伏稲荷神社」。昔から住居が密集していたこの地では「火伏」は必須ですからねぇ。
旧伊勢屋質店の建物です。同業者の方が写真を撮っていました♪
「ズボンの専門店」のようです。覗いてみたら結構オサレなものが売っていました。この名称は変えないで欲しいですねぇ。
菊坂を散歩するときは「菊坂コロッケ」を買って歩き食いするというのが基本でしょう♪ 本日は女将さんが体調が悪く立ち仕事が厳しいということでコロッケは作られていませんでした。しかし「メンチカツ」が売られていたのでそれを購入。メンチカツ調理は腰に負担がかからないのかなぁ?
菊坂から伸びる「金魚坂」を登りきったところにある金魚屋さん兼 喫茶店です。かなりちゃんとした珈琲が飲め、黒いカレーライスもお薦め。喫煙エリアと禁煙エリアとが完全に分離しているのも特徴ですかねぇ。
菊坂から延びる本妙寺坂。江戸の街の1/3を焼いたと言われる「振袖火事」の現場である「本妙寺」はもともとここにあったらしいです。(今は巣鴨にあります)
この「振袖火事」は「恋煩いで死んだ娘が着ていた振袖」が原因だったという曰くがありますので、興味がある方は是非調べてみてください♪
本妙寺坂から折れ曲がったところにあるのが「菊富士ホテル跡」。このホテルは竹久夢二や坂口安吾らが滞在していたという、大正-昭和初期の芸術家や文豪たちゆかりのホテルだったようです。「ときわ荘の文化人バージョン」という感じだったのでしょう。
今は「ANNEX KIKUFUJI」というマンションが建っていますが、こ未来の文豪や芸術家たちが住んでいるのでしょうか?
「セメント王」諸井恒平邸の隣にあります。この近辺の探索をするのであれば見ておいて損はないです。申請すればちゃんと写真撮影も許可してくれますよ♪
この地形図を観ると、文京区エリアの「山脈や谷」の配置が判ります♪ こういう地形図をもっといろんなところでオープンにして欲しいものです。
この辺りの遺跡から発掘された人骨です!
ジオラマは浪漫ですよね♪
菊坂から本郷通の方角に向かって伸びる「胸突坂」です。名前の通りの急坂です。「本郷倶楽部」という、素敵な名前のこの家では、夜な夜な文化人たちが集まって芸術について語っているのでしょうか?
「鳳明館」という歴史ある旅館の別館です。やはりこのあたりでは名所の一つ。どんな方が泊まっているんでしょうか?
「東京にある旅館」というのは、趣があって良いですねぇ。
超有名な「東大赤門」。東大キャンパスは加賀百万石の前田家の上屋敷があった場所で、この赤門は「13代藩主前田斉泰(なりやす)が11代将軍徳川家斉(いえなり)の娘溶姫(やすひめ・ようひめ)を正室に迎えたときに建立された門」らしいです。
本郷通りから菊坂方面に向かっては、いくつかの「良い感じの路地」が今でも残っています。
小さなカフェでは、学術っぽい香りのする大人の方々が談義されていました。
樋口一葉は4歳から9歳までの5年間、この場所にも住んでいたようです。「桜木の宿」というネーミングは当時の幸福な時代を想い、後に一葉によって付けられたものだとか。
「大栄館」という旅館。現在でも運営されているのかは不明ですが、石川啄木の住居でもあったようで、石碑が残っていました。
白山通りに向かって降る坂道の途中で発見。「いり豆」のお店、というだけで、嬉しくなってきます。
上の写真と同じ坂道で発見した、ツタの絡まる喫茶店。土地に合ってますよね。
こんな感じで、菊坂を中心に、白山通り、本郷通り、言問通りから伸びる坂道で囲まれた凸凹地区を歩いてきました。レトロな建物が残る、実に楽しいトレッキングコースですのよ!