新田義興の怨霊/新田神社にったじんじゃ(東京都大田区)

新田神社

新田義興(ニッタ・ヨシオキ)は南北朝時代の南朝の武将ですが、 足利尊氏率いる北朝軍に関東の端である武蔵国にまで追いやられてしましまいました。

義興はその後、北朝軍に寝返ったかつての部下達のだまし討ちに会い、その結果、自害してしまったのですが、当然、その怨霊はすさまじく「いくつかの伝説」を引き起こしました。

そんな義興の怨霊を鎮めるために建立された「新田神社」を今回は訪ねてみました。

新田神社の「義興怨霊」アイテム達

新田神社の祭礼が行われる正月10日と10月10日に、義興を裏切った畠山の一族が訪れると「唸り声を上げる」と言われている狛犬です。

義興の亡骸が葬られていると言われる塚。ここに入ると出てこれなくなると言われる、別名「迷い塚」。

塚の中心にある一本杉は、義興の乗った船の残骸や彼の鎧が変じたものだと言われています。

ここの竹やぶは、この地に立てた源氏の白旗が根付いたものだ言われ、雷が鳴ると音を立てて真っ二つに割れるという言い伝えがあります。平賀源内先生はここの竹を使った破魔矢を販売することを考えたらしいです。

義興は死後「雷神」となったとの伝説がありますが、このご神木にも雷を落としたようです。

まだまだある「義興怨霊伝説」の残り香

新田義興の怨霊伝説は他にも数多く残されております。興味のある方は是非調べていただきたいのですが、いくつかザっと紹介します。

女塚神社(オナヅカ神社)の「少将局伝説(ショウジョウのツボネ)」:

義興を討つために、竹沢右京亮(タケザワ・ウキョウノスケ:義興の元部下)が 差し出した16才の美少女が「少将局」です。

義興を暗殺するための宴に誘うように命じられるのですが、義興に心を寄せてしまった少将局は、義興が宴に行くのを止めます。後に右京亮により惨殺され多摩川に流され、その遺骸が流れ着いた場所に建てられた神社が「女塚神社」で、別名「愛の神社」とも呼ばれています。

十寄神社:最後まで義興を守ろうと戦い、戦死した武将たちを祀る神社です。

頓兵衛地蔵:右京亮達に命じられ、義興が乗った船の底に穴をあけた船頭は、後に義興の怨霊により祟り殺されてしまいました。そんな船頭を祀る地蔵ですが、義興の怨霊のためか、いくら作り直してもボロボロと崩れてくることから「とろけ地蔵」と呼ばれています。

光明寺・観音堂:右京亮とともに義興をだまし討ちにした 江戸遠江守(エド・トウミノカミ)は、雷とともに現われた「角の生えた馬」 に跨る義興の霊が放った7尺の矢によって貫かれ意識を失い、 「光明寺 観音堂」(あるいは「延命寺」)にて七日間、 水に溺れたようにもがき苦しみ続けて息絶えたとのこと。

アクセス方法

東急多摩川線「下丸子駅」から「矢口渡駅」の間に、 新田義興伝説は点在しています。

また「少将局」の「女塚神社」は「京急蒲田駅」 のすぐ近くです。