ソースカツ丼のルーツに関して、最も一般的に語られているのは、 「高畠増太郎氏が、ドイツ料理『シュニッツェル風カツレツ』を和風アレンジしたものを、 大正2年に早稲田のヨーロッパ亭で発表した」ということでしょう。
しかし、それだけではこの話は終わらないのです。 「何かのルーツ」を考えるときに、 「ある一点からのカスケード展開したはず」という観点からでは、 本質が見えてこない場合が多々あります。。
ボクはここでは「多発的なソースカツ丼の発生」について、考えてみたいと思います。
・東京都 早稲田
・群馬県 前橋地方
・長野県 伊那地方
・長野県 駒ヶ根地方
・福島県 会津地方
・福井県 福井市
福井県のソースカツ丼は、高畠増太郎氏が早稲田に開いたヨーロッパ亭が関東大震災で被災した後、 氏の故郷である福井に帰り、そこで再びヨーロッパ亭を開いたことから始まっていると明言されていますので、 「福井」は「早稲田」がそのルーツなのは間違いないでしょう。
このようにヨーロッパ亭をルーツとするソースカツ丼を、 このサイトでは『早稲田系』と呼ぶことにします。
上記の福井以外のもので、 早稲田系はどれでしょうか? 早稲田系とは因果関係を持たないソースカツ丼はどれなのでしょうか?
・キャベツを敷く
『○』:伊那、駒ヶ根、会津
『×』:前橋、福井
・ソースで煮込む
『○』:会津
『×』:前橋、伊那、駒ヶ根、福井
ヨーロッパ亭のソースカツ丼
福島の安達太良風ソースカツ丼(キャベツが特色)
前橋のソースカツ丼。肉を叩いて丸く伸ばす。
上記で「キャベツを敷く」地方の共通点として、保科正之が統治した場所だということに、ボクは注目したいのです。
彼は高遠藩(長野県伊那市)を治めていたのですが、三代将軍徳川家光の 異母弟だと判明したことで、会津若松二十三万石へ転封された大名です。
彼は熱心な朱子学の徒として、 身分制度の固定化を確立し、 男尊女卑を推進した人としても有名なのですが、これと「キャベツを敷く」ことと関係がある気がするのです。
実は、ボクの父方が会津出身者なのですが、 会津の人々は保科正之の影響か、白黒キッチリ筋を通したがる性格の人が多いようですねぇ。
それは食生活にも顕著に表われていて、ボクの父親は白いご飯は白いままでいただく、 ということにとても拘っており、昨今巷で流行の「卵かけご飯」などもってのほかでした。
そういう土地柄なので、ソースが染みこんだトンカツをそのまま白いご飯に 乗せるようなことは、理屈ではなく、生理的に許されなかったはずです。なので、せめて間に キャベツを挟んで、直接ソースが白いご飯を汚さないようにしたんじゃないかなって、ボクは思うわけなのです。
つまり“ソースカツ丼にキャベツを敷く文化は保科保科正之が広めた朱子学に由来する”というのが、ボクの考えです。
建物からも会津の頑固さが解ります♪
どうらや会津地方では既に大正時代には煮込みソースカツ丼を食べていたらしいです。 もともと寒いこの地方、“煮込む”という調理方法は至極当然なので、 「トンカツの食べ方として普通に“煮込む”という調理法を採用し、 それをご飯にのせた(ご飯を汚さないようにキャベツを敷いて)」のでしょう。
通常、味噌か醤油で煮込むところを、ソースを使った理由としては 「トンカツが会津に入ってきた」ときに、 一緒に「トンカツにはソースをかける」と いう文化も一緒に伝わり、 トンカツを煮込むんだからソースを使おう、というだけだったのではないでしょうか。
つまり会津地方の『煮込みソースカツ丼』は『ソースカツ丼からの進化』ではなく、 この地方の食べ方として独自に誕生したのだ、と考えてみたわけです。
ということもあり、会津地方のソースカツ丼は早稲田系の『西洋風の料理』とは異なる、和風テイストの味なのでしょう。
別店舗の会津ソースカツ丼。やはりキャベツが敷かれている。
前橋のソースカツ丼は、大正4年に創業した『西洋亭・市』が元祖と言われています。 ただしソースカツ丼は開業直後からのメニューではないため、発売時期は不明です。
実際にこの店のご主人に伺ったところ、 ご主人の祖母が、戦中に卵が手に入りづらく、 仕方なくソース味のカツ丼を作ったのがキッカケだったとのことです。
また、前橋市が発行しているフリーペーパーでは 「上州人のセッカチな気性を考えソースカツ丼を創案した」とも書かれていました。
どちらにせよ、現存する西洋亭 市のソースカツ丼の形態や調理方法は、 早稲田ムーブメントのそれとは全く異なっているので、 やはり独自に発生したものだと思われます。
興味深いのは「前橋ではソースカツ丼より前に、卵とじカツ丼が存在していた」ということでしょう!
前橋のソースカツ丼弁当。創業大正四年の文字が眩しい。
地域を挙げてソースカツ丼を盛り上げている「長野県駒ケ根」ですが、そのルーツは「伊那地方出身者の方が起ち上げた『喜楽』という店」とのことです。
そのご主人の出身地のためか、駒ケ根も伊那と同じ「キャベツ敷タイプ」で、やはりこれは「保科正之の影響」を受けているのでしょう。
尚、喜楽のご主人は「大のカフェ好き」だったようなので、早稲田系から影響を受けた可能性もあるかもしれませんが、直接的な関係性は無いようです。
日本におけるソースカツ丼の流れには「ドイツ料理のアレンジからスタートした早稲田系」だけでなく、日本各地で「独自に発生した独立系」の流れがあるということが判りました。
「早稲田系」の元祖は「ヨーロッパ亭」で。世間的にはここが「日本のソースカツ丼のルーツ」と言われていますが、前述したように、この店とは関連性を持たない「独立系」も多数存在し、それぞれの土地の文化や風土とともに進化を遂げてきたのです。
それぞれの地域で、それぞれのお店が、更に独自進化を続けていくでしょうから、これからもソースカツ丼から目が離せません。。
皆さんも、旅先でソースカツ丼を見つけたら、「これは何系のソースカツ丼なんだ?」と考察してみると面白いですよ♪
一般的には、“早稲田で発生したソースカツ丼が、より和風アレンジされ、 煮込み系ソースカツ丼になり、その後、卵とじカツ丼になった”と言われていますが、 先に記載したように「前橋ソースカツ丼は『卵とじカツ丼の改良版』として誕生した」とのことですので、 上の説は必ずしも正しくないと思います。
この『卵とじカツ丼』と『煮込み系ソースカツ丼』と『ソースカツ丼』の関係については、今後の課題ですね♪