東京生まれ東京育ちのボクにとっては、 30代半ばまで全く馴染みのなかった『焼き饅頭』。最初は『デカイ団子』だと思ったのですが、 団子のような『もっちり』したものではなく『ふわふわ』した不思議な食感なのです。
食感だけでなく、その歴史にも興味深いエッセンスがあったのです。それが今回紹介する『日本の養蚕業との関係性』なのです。
群馬県の沼田地方は古くから養蚕が盛んな場所です。 そこで織られた絹織物は中仙道を通り前橋や伊勢崎で取引され、 更に南の行田地区で絹製品に加工されていったわけです。
ボクははこの沼田・前橋・伊勢崎・行田をつなぐ、生糸商人が通った道を 『上州シルクロード』と呼んでいるのですが、 ここを渡って伝わったものはなにも絹製品だけではありません。
そう、『焼き饅頭』も『上州シルクロード』を渡って広まっていったのですよ!
〜中仙道のどこで発祥したのか?〜
地図を見ると、焼き饅頭の分布(群馬の沼田、前橋、伊勢崎)は養蚕業や絹織物の取引が盛んだった場所と重なっているということが解りますよね。
古くから絹商人たち往来し、 絹織物と共に焼き饅頭を広めたのではないか、という観点から、『焼き饅頭発祥の地』 を探してみたというわけです。
一般的には、沼田市、前橋市、そして伊勢崎市が、 それぞれ『焼き饅頭発祥の地』を名乗っているようなので、 順を追ってこれら三都市を検証してみます。
〜『渡世訓』や『渡世かるた』まである〜
焼き饅頭について調べていて、 一番最初に出てくるのが前橋にある原嶋屋総本家がその元祖だという説です。 (これを『原嶋屋説』と呼びます)
1857年(安政4年)に伊勢崎方面の庄屋だった原嶋類蔵さんが、 小麦粉と“もち米”を原材料に、どぶろくをタネ(発酵剤)として、 饅頭をつくったのが、 現在の原嶋屋総本家の始まりだったということです。 当時、どぶろくをタネにして発酵させるという手法はとても珍しかったようですねぇ。
そしてその後、ただの白い饅頭では面白みがないということで、 長い竹の串に刺し、味噌を付けて焼いのが焼き饅頭の誕生の瞬間でした!
当時の名称は「味噌付き饅頭」で、1尺3寸(およそ40センチ)ほども ある長い竹串に5個さしものを「1本を2文で販売していた」とのことです。
尚、初代 原嶋類蔵さんが焼き饅頭を創案したときは、 地元の菓子組合に阻まれて出店することができず、 屋台や露店のみで販売していたのだとか。
こういった話は大好きだなぁ。すごいぞ類蔵さん!
※原嶋屋総本家には商売の家訓を示した『万代不易の原嶋屋渡世訓』があり、 結構、ふむふむと納得しちゃう内容だったりするわけです。興味ある方は是非ググってみて!
※『上州原嶋屋渡世かるた』なども発行しており、 原嶋屋は文化面でもこの地方に大いなる足跡を残してきたようです。
〜「焼き饅頭沼田発祥説」の雄〜
養蚕業が盛んな沼田地方もまた、焼き饅頭の発祥の地とされていますが、ここで最も有名なのが創業1825年(文政8)の東見屋饅頭店です。
この店では今も『味噌饅頭』と呼ばれていますが、名称に『味噌』を付けるかどうかは、焼き饅頭のルーツやその広まり方を考察する上で 重要なファクターになるのかも知れないと、ボクは考えている次第です。
沼田地方の焼き饅頭を語る上でもうひとつ重要なのは、 中に餡子が入っているものもある、ということです。 沼田出身の知人から『餡入り』の方がポピュラーだ、と言われたこともありました。
ところが他の『焼き饅頭発祥の地』では『餡入り』はあまり見当たらず、 なかには『邪道』と呼ぶ人さえいる始末。
もともと『餡入り』だったのが、他の地方に広まるにつれて『餡なし』 に代わっていったのか、他の地方から入ってきた『餡なし』の焼き饅頭が、 沼田に入ってから『餡入り』になったか?
それもと、同時多発的に『ある場所では餡なし、ある場所では餡入り』 という誕生の仕方をしたのか。実に興味深いところです!
〜焼き饅頭祭の主催者〜
伊勢崎には焼き饅頭を祭事に取り入れた『焼き饅祭』なるものが存在します。
これは毎年、1月11日に伊勢崎神社で開催される『初市の日』 と同時開催で行われるもので、 創立は2003年なので、まだ新しいものですが、その意気込みは相当凄いですよ。
『焼き饅祭』は『いせさき焼き饅頭愛好会』が主催しており、 直径55センチのデカイ焼き饅頭を作る『大串饅頭』というイベントと、 とてつもなく長い焼き饅頭を作る『長串饅頭』というイベントが行われるとのこと。
これだけだと、伊勢崎の地にどのくらい前から焼き饅頭があったのかはよくわからないですが、 地元に焼き饅頭が溶け込んでいるということはよくわかりますねぇ。
伊勢崎の焼き饅頭の有名店といえば、『忠治茶屋本舗』でしょう。 『いせさき焼き饅頭愛好会』の代表がこの店の店主で、 名前の由来はもちろん国定忠治からきています。
忠治茶屋本舗の建物は、 忠治が最後にかくまわれていた西野目宇右衛門宅が解体された際に、 その資材を譲り受けて建てたものらしいです。
〜新田氏発祥の地にも伝説がある〜
焼き饅頭のお店をサイトで調べていてビビッときたのがこの『助平屋 饅頭総本舗』です。
サイト記載の屋号の由来を読むと 「饅頭がふくらむのと、はらんで腹がふくれるのを結びつけ、 初代が名づけた」というのだから、 『助平』を一般的な『スケベエ』の意味で使っているようです。
戦争中には「けしからぬ」と当局からクレームがついたのだとか♪
また、サイトには「初代のもうひとつの意とするところは、平らに人に接する、助ける、ということで、心を込めて作り、 そして心を込めてお客様をお迎えすることである」という由来も書かれていました。
しかしコチラの方は当局から文句を言われた場合の「言い訳用」だと思いますねぇ♪
サイトによれば、
「助平屋の饅頭は、今も昔と変わらぬ製法で作られる。 まず米を炊いて麹を入れ、人肌の温度で二十四時間ねかして発酵させ、 小麦粉を混ぜて練り上げて生地を作る。 それを切って饅頭の形に丸め、セイロに並べて自然発酵させ、 まんじゅうの大きさになるのを待ってから蒸す。 焼饅頭は、饅頭半分、タレ半分といわれ、タレには当店独特の秘伝が隠されている。 助平屋の味噌ダレは時間をかけてとろ火で煮込まれている。 タレは、全く醤油は使っていないのに艶やかな黒光り。 こってりとした甘さなのだが、くどくなく、口の中でサラッと溶ける。」
とのこと。是非、食べてみたいです。
焼き饅頭は、原嶋屋説でも東見屋説でも最初は『味噌饅頭』と呼ばれていたのだが、 これを『焼き饅頭』としたのは、どうも前橋の生糸商人たちだったようです。
前橋は当時から商業が栄えた街で、たくさんの生糸商人が出入りしていたわけですが、 商人にとっては『味噌』は「ミソが付く=しくじる」 に通じ縁起が悪い言葉だとのことで、『焼き饅頭』と呼び名を変えたというのがその理由らしいですよ。
なんとなくですが「養蚕業が盛んな沼田地方で発祥した焼まんじゅう文化が、 生糸商人たちにより前橋に伝わり、そこで洗練され、 さらに伊勢崎にも伝えられたのではないか」と思えてきたのですが、 なんとここで更なる『新情報』が出てきました!
ボクはまだ入手できていないのですが 『焼きまんじゅう屋一代記(木暮正夫〔著〕:偕成社)』という本があるらしいです。
それによると沼田と伊勢崎とでは焼き饅頭のルーツが違うということが 書かれているらしいのです!
(読んでいないので、なんとも言えないが、そのようなコメントがネット上にあった。)
是非、入手してみたいと思うのですが、ネットで調べても“在庫無し”とのこと。 おそらく、全国の『焼き饅頭調査ファン』が買いあさっているのが原因だと思われますねぇ。
この『沼田、伊勢崎、独立発祥説』が正しいとすれば、 それぞれ独自に発祥した沼田焼き饅頭と伊勢崎焼き饅頭とが、 前橋の生糸商人によって融合され広まったのかもしれません。
このように、まだまだ判らないことだらけの焼き饅頭問題なのですが、 今後も継続的に調査していきたと思います。