【伊賀と甲賀にそれぞれ『忍者屋敷』がある】

伊賀と甲賀とは、現在の感覚で言うと「車で小一時間」の距離なのだが、当時の「山越え」を考えると、別世界だったのかもしれない。

伊賀忍者は「完全なる縦社会」であり、江戸時代には武士階級になったにも係わらず、甲賀忍者は「合議制の社会」であり、武士階級になれなかったという違いがある。

しかしそんなことではなく、もっと『理系おやじ的』にその違いを考えてみたいと思い、伊賀と甲賀、それぞれに泊りで探索してきた。

伊賀の忍者屋敷。博物館の要素が高いかな。

甲賀の忍者屋敷。実際の忍者屋敷の転用。

■1■みずぐもについて比較してみる

忍者が「水の上を歩く」ときに使う『みずぐも』だが、伊賀と甲賀とではまるきりコンセプトが違うのだ

伊賀の『みずぐも』は『草履タイプ』

甲賀の『みずぐも』は『浮き輪タイプ』

甲賀タイプは「後ろ方向にのみ折れ曲がる一本歯の下駄」を履き、それを水かきのようにして水上を進む。

【伊賀タイプで本当に浮くのか】

『浮力』とは「物体が押しのけた水の重さ分だけ体重が軽くなる」という仕組みで生じるので、直径40センチ厚さ数センチの『みずぐも』が人間の体重を打ち消す浮力を生み出すはずがない。

これはどう考えても『甲賀タイプ』の勝ちだろう。

■2■どんでん返しのコンセプトも違う

これはまず下記の絵を観てもらいたい。

どちらの方向にもグルグル回る伊賀タイプ。

一度片側に回すと、次は反対方向にしか回らない甲賀タイプ。

【甲賀タイプは心理学的にも完成度が高い】

甲賀タイプの『どんでん返し』の場合、左方向からまず忍者が逃げてきて『どんでん返し』の左側から壁の向こうに逃げます。それを追いかける敵が同じように左側の扉を押すと今度は抜けることができない。そこで焦りが生じる。

敵は焦りながらも壁を押し続け、右側からだと押せることに気がつき、「よし」とばかり、勢い付けて右側の壁を押して壁の向こうに追いかけようとする。

しかし先に逃げた忍者はこの隙に壁の先の床の板を外す。 すると深い落とし穴が現れてくるのだ!

かなり怖い『落とし穴』。奥に行くほど広がっていく構造で、なかなか上に上がってこれない。

【結論1】『甲賀』の方が『忍者度が高い』と思う。

『みずぐも』と『どんでん返し』だけでなく、他にもいくつか「甲賀の方がリアルだなぁ」と思えることがいくつかあった。

これは是非、皆さんにも確認してみてもらいたい。

■3■忍者屋敷としてのコンセプトを比較する。

これは入館した人にもよると思うが、『伊賀』の方が圧倒的にアミューズメント性が高い。それに町を上げての『忍者の町 伊賀』を盛り上げているような気がする。

ま、これはその後の変化もあるだろうから、定期的に忍者の里を訪れてみたい。

伊賀は忍者っぽいお土産も豊富だ。

【伊賀と甲賀の違い諸々】

現地で解った、それ以外の『違い』を羅列してみる。

伊賀では猿飛佐助は伊賀忍者

伊賀では「猿飛佐助は伊賀忍者“下柘植ノ木猿”がモデルになっている」と言われていた。

この「下柘植ノ木猿」という人は実在人物だったようで、更に「下柘植」というのは三重県伊賀市にある土地の名で、名阪国道に「下柘植IC」もあるぐらい伊賀では普通に知られている場所です。伊賀における「猿飛佐助の地元意識」は結構浸透しているようだった。

ボクが幼少の頃に買ってもらった忍者の本にも「猿飛佐助のモデルは下柘植の木猿だ」と書いてあったのを覚えている。

甲賀では猿飛佐助は甲賀忍者

ご存知の通り、猿飛佐助は「真田十勇士」の登場人物であり、 その中で「甲賀忍者」として紹介されているので、当然のことながら、甲賀では 「猿飛佐助は甲賀忍者」 として紹介されている。

真田十勇士において伊賀忍者は「霧隠才蔵」であり、佐助と才蔵のライバル関係がこの物語の「見せ場」でもあるので、当然佐助は甲賀忍者でなくてはならないだろう。

この「伊賀と甲賀における猿飛佐助論争」については、今後も注目していきたい♪

伊賀忍者は階層社会

伊賀忍者の社会は「上忍」「中忍」「下忍」という階級社会だったようだ。

彼らの支配階級である「上忍」には、有名な「服部」とか「百地」などがいて、 前述した真田十勇士の霧隠才蔵は百地三太夫の弟子ということになっている。

甲賀忍者は合議制

甲賀は「惣」と呼ばれる組織の集合体からなり、 完全合議制で物事を決定していたようだ。

一説には「日本最古の民主主義が甲賀にはあった」とも言われているらしい。

伊賀忍者は武士階級に

伊賀忍者の長である服部半蔵が徳川家康に仕えていたことから、家康が天下を取ることで伊賀忍者も武士として江戸幕府に組み込まれていった。

甲賀忍者は武士にはなれなかった

甲賀忍者は江戸幕府に関して、再三にわたり「武士にしてくれ」と嘆願したらしいのだが結局叶えられず、それでも志だけは武士なんだぁ、自らを「甲賀古士」と呼んでいたようだ。