【忠臣蔵は謎だらけ】

いかにも“主君に対する忠義に準じた良い話”として語られている『忠臣蔵』だが、 どうも腑に落ちないところが多い。

ま、史実をきちんと調べる根性はないので、 テレビドラマで得た薄っぺらい知識で、 なんとなく疑問に思ったところを羅列してみた。

■内匠頭は何故、吉良上野介に切りかかったのか?

いくら恥をかかされたとはいえ、勅使・院使を迎えている最中、 殿中で切りかかったりするのだろうか。

■内匠頭は何故、即日に切腹となったのか?

朝廷との儀式をないがしろにされたことに対する、徳川綱吉の怒りのためと言われているが、浅野家は豊臣時代から続いた名門。そんなお殿様をろくに取り調べもしないで即日切腹というのは、どうも何か裏がありそうなのだが。

■上野介は、何故、本所松阪町に屋敷代えとなったのか?

当時、大川(今の隅田川)の向こう側は閑散としていた場所だったらしく、赤穂浪士が狙っていると噂されていたことを考えると、幕府は吉良家を見捨てたとしか考えられない。一説には、力をつけてきた上野介を葬るために仕組んだ陰謀だったなんて話もあるようだ。

■赤穂浪士は何故、忠臣蔵と呼ばれているのか?

普通に考えれば、赤穂浪士とは、夜中に集団で高家の屋敷を襲ったテロ集団。内匠頭と上野介との一件も、加害者は内匠頭で上野介は被害者なのだから『仇討ち』と呼ぶのはおかしいのではないか。

■伝説の“一騎打ち”も、正統な勝負といえるのか?

ハイライトシーンの“堀部安兵衛と清水一学との大立ち回り”にしても、安兵衛はクサリカタビラをまとった完全武装、一方、一学は寝込みを襲われた寝巻き姿。どうみても『尋常な勝負』ではないだろう。

■事件を無理やり美化したような気がするのだが

『武装集団によるテロ事件』がこれほどまでに美化されているのは、忠義話として語り継いだ講釈師の影響らしい。しかし、赤穂浪士の行いを美化させるために幕府が講釈師に働きかけた、と考えることもできるのでは?

■結局誰が得したんだ?

当時、江戸は大不況で、幕府に対する町民の不満はピークに達していたようだ。 それがこの忠臣蔵事件のおかげで、町民のフラストレーションは解消されるし、“忠義”という『体制に対する忠誠心を煽るスローガン』は浸透するし、(邪魔な存在になりそうだった)吉良上野介は始末できるし。。。

■結論ですが

以上の理由から『忠臣蔵』のデキゴトは当時の権力者が仕組んだ狂言のような気がしてならない。

【赤穂浪士の凄いところを列挙してみる】

討ち入り後の赤穂浪士たちが歩いたと言われる道を、ボクは実際に歩いたことがあり、そのときに本やネットで調べたり、石碑などから知ったいくつかの逸話の中から、彼らの凄い部分を抜き出してみる。

■赤穂浪士最強剣士 堀部安兵衛

いわゆる『江戸急進派』(江戸に在住した赤穂浪士の中で「吉良の首を刎ねろ」と息巻いていた人たちのこと)のリーダー格。

旧姓を中山といい、あの有名な高田の馬場の決闘において、 菅野六郎左衛門の助太刀として相手方を多数切り倒し、“中山安兵衛の十六人切り”とか“十八人切り”とか語り継がれている剣豪。

講談では高田の馬場での決闘の直前、たまたま出会わせた娘から扱帯 (しごきおび:そういう種類の帯があるらしい)を借りてタスキにして、敵をバッタバッタとなぎ倒したことになっているが、その娘こそ堀部弥兵衛の娘だった。

ヤヘエさんはこの時のヤスベエさんの強さと男気に惚れこみ養子にし、そして最後はその娘とヤスベエは結婚したのだそうだ。

■わずか2時間で両国から浅学時まで歩いた健脚

クサリカタビラは数キロぐらいか?、カブトは1キロ前後だろう。 刀は居合い用の真剣が1キロぐらいだから、実戦用はも少し重かったのかも。 その他、小手だとかスネアテだとか、全て含めると10キロぐらいあったのかもしれない。

そんなものを身につけて約11キロメートルの道のりを2時間で歩くのだから (しかも夜通し戦った後に)、当時の人のスタミナとか根性には恐れ入る。

これは忠臣蔵において、ボクが一番感動したことだ!

■しかし時間測定の正確性には疑問が残る

当時は、その場所のお寺で鳴らす鐘の音で時刻を知ったわけだが、 離れた二つの場所で時刻を完全に“同期”させる手段はないはず。

つまり、ある場所で丁度6つ時(午前6時)でも、違う場所ではまだ6つ時にはなっていないなんてことだって当然、考えられる。

忠臣蔵では回向院を出発したのが6つ時で、泉岳寺についたのが5つ時(午前8時)なので、回向院タイムと泉岳寺タイムとが完全に同期されていればこの間は2時間だが、回向院タイムが“絶対時刻”に対して30分進んでいて、泉岳寺タイムが30分遅れていれば、赤穂浪士は3時間かかってこの道のりを歩んだことになるのだ。

ま、これは今となっては確かめられないことなのだが。。

【寺坂問題・48番目問題というのをご存知か?】

ま、これらの名称はボクが勝手に作ったものなのだが、忠臣蔵にはいくつかの“番外編的な逸話”が残っており、その中でも“討ち入りの後に姿を消した寺坂吉右衛門”と、“赤穂浪士は47人なのに、泉岳寺の赤穂浪士の墓には48個の墓石が立つ”という二つについて、最後に記載してみたいと思う。

■討ち入りの後に姿を消した寺坂吉右衛門

四十七士の一人である寺坂吉右衛門は、ドラマなどでも討ち入り後に“姿を消した”として、あまり名誉ではない逸話を残した人物だ。

彼は当初「足軽の身であるため、最初は吉良討伐の同士には入れてもらえなかった」にも係わらず、熱心に大石内蔵助に直訴し、最終的にようやくその熱意を認められ討ち入りに参加することになったという経緯がある。

そんな人物が泉岳寺に向かう途中(泉岳寺に着いた後は四十七士で切腹することになっていた)脱盟した理由としては「単に命が惜しくなったから」ではなく、いくつかの説があるようだ。

理由1:足軽が討ち入りに参加したことを公にしたくなかったから内蔵助が彼を逃がした。

同じ武士階級とは言っても、足軽は足軽。君主のあだ討ちに参加するには実分不相応であり、「足軽をあだ討ちに参加させてまで吉良を討ち取りたかったのか」と、不名誉な噂を避けるために、内蔵助が彼を逃がしたという説だ。

理由2:本懐を遂げたことを浅野家ゆかりの者へ伝える命を内蔵助から受けて伝令に 走った。

これは1とセットで真実かもしれないと思う。

理由3:寺坂は討ち入りにすら参加していない。

しかし、下記のような理由で泉岳寺には寺坂の墓があり「これは無いな」とは思う。

寺坂吉右衛門は他の四十六士たちが切腹した後、赤穂浪士の一人である吉田忠左衛門兼亮の娘婿で姫路藩士の伊藤十郎大夫に奉公し、後に江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめたとのこと。その後、宇都宮藩士 山内主膳家に仕え延享4年(1747年)に83歳の長寿 を全うし、ようやく念願かなって、泉岳寺に供養費が建てられたのだとか。

■48番目の墓石は誰の墓?

四十八人目のお墓は仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデルとなった萱野三平重実のものだ。

彼は、内匠頭の刃傷事件をいち早く赤穂に伝えた人物で、通常の旅人なら17日間、飛脚でも8日はかかるという距離を、なんと4日で伝えたのだとか!

萱野三平重は吉良討伐の義盟に加わるのだが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害してしまうのだが、その死を悼み、四十七士と同じ場所に墓を移されたとのことだ。