江戸時代、死刑囚の刑場であった小塚原刑場跡にある「観臓記念碑」には、 上の写真の「解体新書」の表紙のデザインのレリーフが設置されています。
今回は「解体新書」の表紙のデザインの元となった「ワルエルダ解剖書」の表紙と比較しながら、 日本と西洋の文化の違いについて考えてみたいと思います。
向って左が「ワルエルダ解剖書」の表紙で、右が「解体新書」の表紙を象った観臓記念碑のレリーフです。
「解体新書」はご存知の通り、オランダ語で書かれた「ターヘル・アナトミア」を杉田玄白・前野良沢らが翻訳した書籍なわけです。にもかかわらずその表紙は「ターヘル・アナトミア」のものではなく「ワルエルダ解剖書」をモチーフにしたデザインとなっているのですよ!
「解体新書」の表紙の下部には「天眞楼」と書かれていますが、これは杉田玄白が主催する私塾の名称ですので、「解体新書」にこの表紙を選んだのは杉田玄白ではないかと言われているようです。そして「杉田玄白はキリシタンであったため、アダムとイブを描いた『聖書を匂わせるデザイン』を採用した」というのが定説のようですが、ボクがここで言いたいのはそんなことではないのです。
上の画像で判る通り、「解体新書」の表紙のデザインは「ワルエルダ解剖書」のそれと基本的な構成は同じであり、「アダムがイブからリンゴを受け取った時」と思われる絵が描かれていますが、ここに注目していただきたいのです。
しかし 断っておきますが、なにもボクは「アダムがイブからリンゴを受け取った図柄は 『この本により、人類は新たな知恵を得たことの象徴』なのだ」なんてことを言うつもりはありません。
ボクが言いたいことを述べる前に、まず、上の二つの表紙の絵のそれぞれの拡大図を下に掲載してみますので、それをじっくりと見てみてください。
判りましたか? そうなのです、どちらの表紙でも「アダムもイブもリンゴを食べる前」ですから、当然「性に関する羞恥心は無い」状態です。なので「ワルエルダ解剖書」の表紙では2人とも平気で下半身を露にしていますが、それに対して「解体新書」の表紙では、どういうわけかアダムは花のようなもので股間を隠しており、イブもなんとなく股間を手で隠そうとしているように見えませんか!
ボクは言いたいのはこのことなのです!
リンゴを食べる前なのに、アダムとイブに羞恥心があったような描き方をしたいるのは、「当時の日本がアダムとイブの神話を理解していなかった」からだとか、「あえて別の解釈をうながすための施策である」からだとか、そういうことではないと思うのですよ。
そう、ボクはこれを「日本の奥ゆかしさの現れ」として捉えたのです!
たとえ医学書とはいえ「性器を露にする」なんてとんでもない、という感覚が当時から日本人にはあったのだと思います。しかも当時の印刷は「木を掘って作る版画」でしたから「あの部分を正確にノミで掘っていく」なんてこと、奥ゆかしい日本人にはできなかったのでしょう。そうです、そうに決まっています。
これからみても、解体新書は単なる「翻訳本」ではなく、日本独自の解釈で書かれた書物であることが判るというわけです!
そして、ここから今回の記事の一番大切なことを書きます。
アダムとイブの「股間を表現する日本と西洋との違い」を比べてみましたが、ボクとしては「男性は堂々と股間を出しているほうがイケている」と思うし、反対に「女性の場合は隠した方が圧倒的にグッとくる」と思うのです!
もちろん「ワルエルダ解剖書」も「解体新書」も、読者を「グッとさせる」ことを目的に書かれた本ではないのは充分に承知していますよ。
だけど「股間を花で隠しているアダム」が、なんとも女々しく映ってしまう反面、本家「ワルエルダ解剖書」の「ミスター・アダム」は実に猛々しいではないですか!
そして「ワルエルダ解剖書」で股間を大胆に露出しているイブは、いわゆる「大胆で健康的なセクシー路線」を走っており、ボクには全く興味がないんですよねぇ。やはり女性の場合は、「隠匿された罪悪感をともなう淫靡な雰囲気」を醸し出していただきたいじゃないですか! 当然、皆さんもそう思いますよね?
つまりボクたちは「和洋折衷し、それぞれの良いところを積極的に取り入れ、よりグッとくる人生を歩むべき」だと思うのです。今回ボクはこのような結論を「解体新書」の表紙から再認識させていただきました。