「ドリフのコント」にも使われた「松之廊下の事件」です。吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭を羽交い絞めしたのは「梶川与惣兵衛」という旗本だということは、同業者には常識ですよね♪
日本人ならほぼ誰もが知っている「忠臣蔵」。一般的には“主君に対する忠義に殉じた美談”として語られているのですが、よく考えるとどうも腑に落ちないですよね。
ま、史実をきちんと調べる根性はありませんので(w)、ドラマで得た薄っぺらい知識をもとに、なんとなく疑問に思ったところを羅列してみたいと思います。
今も両国に残る「吉良邸跡」です。東京在住の散歩ファンは必ず行かねばならない場所ですよ♪
いくら恥をかかされたとはいえ、朝廷からの勅使を迎えている最中に殿中で切りかかったりするのでしょうか。一説には「内匠頭は癇癪持ちだった」とも言われているようですが、「癇癪起こすたびに人に切りかかるような人」だったのでしょうかねぇ。。
一説には「朝廷との儀式をないがしろにされたことに対する、徳川綱吉の怒りのため」とされていますが、浅野家は豊臣時代から続いた名門。そんなお殿様をろくに取り調べもしないで即日切腹って、ありうるのでしょうかねぇ。。
当時、大川(今の隅田川)の向こう側は閑散としていた場所だったらしく、赤穂浪士が狙っていると噂されていたことを考えると、幕府は吉良家を見捨てたとしか考えられないですよね。
一説には、力をつけてきた上野介を葬るために仕組んだ陰謀だったなんて話もあるようですが。。
普通に考えれば、赤穂浪士とは「夜中に集団で吉良上野介の屋敷を襲ったテロ集団」ですよ。内匠頭と上野介との一件も「加害者は内匠頭」で「上野介は被害者」なのですから「仇討ち」と呼ぶのはおかしいですよね。。
ハイライトシーンの「堀部安兵衛と清水一学との一騎打ち」にしても、安兵衛はクサリカタビラをまとった完全武装、一方、一学は寝込みを襲われた寝巻き姿。どうみても「尋常な勝負」ではないですよね。何故、そのことに誰もツッコまないんだろう。。
何度も言うようですが、これは「尋常なる仇討ち」の体裁は取られておりません。にも関わらずこの「討入り」がこれほどまでに美化された原因は「忠義話として語り継いだ講釈師の影響」らしいのですが、当時の幕府は何故、このような「講釈師の語り」を許したのでしょう。。
一説には当時の江戸は大不況で、幕府に対する町民の不満はピークに達していたようですねぇ。それがこの忠臣蔵事件のおかげで、町民のフラストレーションは解消されることになると同時に、“忠義”という「体制に対する忠誠心を煽るスローガン」は浸透するし、(邪魔な存在になりそうだった)吉良上野介は始末できるしと、どうも当時の幕府が得をしたような気がするのですが。。
ま、他にもいろいろと言われている「忠臣蔵」ですが、恐らくは 7)で書いたような理由からの「幕府が仕組んだ狂言」だったような気がしますねぇ。ま、詳しくは「詳しい方」に委ねたいと思いますけど・・・。
今も残る「吉良上野介の切り落とされた首を洗ったと言われる井戸」です。 何度も言いますが、ボクは「上野介は被害者だ」と思うのですよねぇ・・・。
主君である「吉良上野介」を守って命を落とした彼らこそ「忠臣」だと思うのは、ボクがヒネクレモノだからでしょうか・・・。
忠臣蔵の「謎」は置いておいて、実はボクは「討ち入り後の赤穂浪士たちが歩いた道のりを実際に歩いたことがある」んですよ!
その時に感じた「赤穂浪士の凄いところ」をここでは書き出してみたいと思います♪
浮世絵とは異なり、実際の赤穂浪士たちは、討入り後に両国橋を渡らずに、大川の東側の道を南下して歩いていったようです。
堀部弥兵衛さんとは、赤穂浪士の最強剣剣士として名高い「堀部安兵衛」さんの義父にあたる方で、この討入りに参加した時には「なんと77歳」という年齢だったのです!
その「77歳の弥兵衛さん」は、一晩中、吉良邸で戦った後、一睡もすることなくそのまま「重たい兜と鎖帷子と身にまとい、武器を手にしたままの状態」で、両国の吉良邸から品川の先の泉岳寺まで2時間で歩き切ったのですからねぇ。
ボクはこの道のりを何度か歩いていますが(暇なのか?)、だいたい5〜6時間ぐらいかかっちゃうんですよ。休みなしで歩ける距離ではないですしねぇ。絶対に銀座とか品川あたりでドトールなり吉野家なりに入るしかないじゃないですか!
それを当時(平均寿命が30代だったと言われる江戸時代)の77歳が、重たい武器&防具を纏ったまま、しかも徹夜で討入りした後に2時間で歩き通したんですから!
ボクにとっての忠臣蔵は「弥兵衛さんの健脚の凄さ」に尽きるってわけです!
彼はいわゆる「江戸急進派」(江戸に在住した赤穂浪士の中で「吉良の首を刎ねろ」と息巻いていた人たちのこと)のリーダー格だったんですよね。
旧姓を中山といい、あの有名な「高田の馬場の決闘」において、菅野六郎左衛門の助太刀として相手方を多数切り倒し、「中山安兵衛の十六人切り」とか「十八人切り」とか語り継がれている剣豪だったのです。
講談では高田の馬場での決闘の直前、たまたま出会わせた娘から扱帯 (しごきおび:そういう種類の帯があるらしい)を借りてタスキにして、敵をバッタバッタとなぎ倒したことになっているが、その娘こそ堀部弥兵衛の娘だったという事です。
弥屋兵衛さんはこの時の安兵衛の強さと男気に惚れこみ養子にし、そしてその後、弥兵衛さんの娘さんと安兵衛は結婚したのだそうですよ。
「忠臣蔵」では先に書いたように「清水一学との一騎打ち」が有名ですよね♪
弥兵衛さんの健脚にケチをつける気はないのですが、当時は「その場所のお寺で鳴らす鐘の音で時刻を知った」ということを考えると、本当に「2時間で歩いたのか」については若干疑問が残るわけです。だって「吉良邸近くの回向院の鐘」と「品川の先の泉岳寺の鐘」とが、普通に考えると「完全に同期しているはずがない」ですよね。
忠臣蔵では回向院を出発したのが6つ時で、泉岳寺についたのが5つ時(午前8時)なので、回向院タイムと泉岳寺タイムとが完全に同期されていればこの間は2時間なのですが、回向院タイムが“絶対時刻”に対して30分進んでいて、泉岳寺タイムが30分遅れていれば、赤穂浪士は3時間かかってこの道のりを歩んだことになりますよね!
ま、これは今となっては確かめられないことですし、そんなことを言い訳に、ボクがこの道のりを6時間近くかかってしまったことを正当化してもようがないのですけどね♪
大石倉之助像:討ち入りを計画している時の姿らしいので、(享年である)45歳よりも若いということになるのでしょうけど、実に大人な顔なんですよねぇ。凄いなぁ、昔の人は。
ボクが「忠臣蔵」を語るときに、絶対外せないのがこの2つの事なのです。ま、これらの名称はボクが勝手に作ったものなのですが、忠臣蔵にはいくつかの「番外編的な逸話」が残っているのです。
その中でも「討ち入りの後に姿を消した寺坂吉右衛門」と「赤穂浪士は47人なのに、泉岳寺の赤穂浪士の墓には48個の墓石が立つ」という2つのことについて、最後に記載してみたいと思います。
四十七士の一人である寺坂吉右衛門は、ドラマなどでも討ち入り後に「姿を消した」として、あまり名誉ではない逸話を残した人物ですよね。
彼は当初「足軽の身であるため、最初は吉良討伐の同士には入れてもらえなかった」にも係わらず、熱心に大石内蔵助に直訴し、最終的にようやくその熱意を認められ討ち入りに参加することになったという経緯があるようです。
そんな人物が泉岳寺に向かう途中(泉岳寺に着いた後は四十七士で切腹することになっていた)脱盟した理由としては「単に命が惜しくなったから」ではなく、いくつかの説があるようなのです。
理由1:足軽が討ち入りに参加したことを公にしたくなかったから内蔵助が彼を逃がした。
同じ武士階級とは言っても、足軽は足軽。君主のあだ討ちに参加するには「身分不相応」であり、「足軽をあだ討ちに参加させてまで吉良を討ち取りたかったのか」と、不名誉な噂を避けるために、内蔵助が彼を逃がしたという説があるようです。
理由2:本懐を遂げたことを浅野家ゆかりの者へ伝える命を内蔵助から受けて伝令に 走った。
これは1とセットな話かもしれません。
理由3:寺坂は討ち入りにすら参加していない。
しかし、下記のような理由で泉岳寺には寺坂の墓があり「これは無いな」と思うのです。
寺坂吉右衛門は他の四十六士たちが切腹した後、赤穂浪士の一人である吉田忠左衛門兼亮の娘婿で姫路藩士の伊藤十郎大夫に奉公し、後に江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめたとのことです。
その後、宇都宮藩士 山内主膳家に仕え延享4年(1747年)に83歳の長寿 を全うし、ようやく念願かなって、泉岳寺に供養費が建てられたのだとか。かなり辛い余生だったんではないかと思うのですよねぇ。
四十八人目のお墓は仮名手本忠臣蔵の早野勘平のモデルとなった萱野三平重実という人のものなのです。
彼は、内匠頭の刃傷事件をいち早く赤穂に伝えた人物で、通常の旅人なら17日間、飛脚でも8日はかかるという距離を「なんと4日で走った」という、これまたボクの大好きな「超健脚」の持ち主だったのです!
萱野三平重は吉良討伐の義盟に加わるのですが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害してしまったのだとか。その死を悼み、四十七士と同じ場所に墓を移され、今では同じ泉岳寺に眠っています。
いろいろと謎の残る忠臣蔵ですが、結局最後に書いた「寺坂吉右衛門」や「萱野三平重実」の話から感じる「日本における所属社会」にまつわる話が、一番切ないですよねぇ。
これってある意味「同僚が残業しているから自分は早く帰社できない」というのと同じだと思うのですよ。(ま、すごく安易な比喩なんですが)
日本には「真の個人主義」は根付かないんだろうなぁって、なんだか最後はそんな感想になってしまうのです。。。。