吉原遊郭の基礎を作ったのは庄司甚内という人物で、なんと20代前半のときに関ヶ原の戦いに出向く徳川家康に遊郭設立の許可を直訴し、江戸幕府成立後に「公認の遊郭」を鈴ヶ森に作ったのが、その始まりなのだとか。
その後、より江戸中央に近い京橋柳町へと移り、更には人形町に移動したのが1618年。現在の地へと移ったのは彼の死後で、1657年の明暦の大火災後の江戸再構築による移転だったようです。
浮世絵や舞台などでは華やかなイメージで描かれる遊女たちですが、飢餓で苦しむ東北などから売られてきた彼女たちが皆、幸せな人生を送れたはずもなく、大部分は悲惨な人生を送っただろうことは容易に想像がつきます。
そんな『かつての吉原の影』を探索する散歩に行ってきました。
江戸時代、吉原へと向かう道は、日本堤お土手を徒歩もしくは籠などで行く陸路と、大川(隅田川)から山谷堀に入る水路とがあったようです。
それぞれ浮世絵などで残っていますが、現在の風景とはだいぶ違いますねぇ。(山谷堀は現在は暗渠化され『山谷堀公園』となっています)
寂しいルートを通らないと行けないような場所に、人工的に作られた『異世界』というのが当時の吉原だったのでしょう。
昭和初期を舞台に架かれた永井荷風の『墨東奇譚』の最初のシーンで、主人公は言問橋の西詰から日本堤の方角にある古本屋からの帰りに警察に尋問されます。
その当時、この辺りは「夕暮れ以降に一人歩きをするには物騒な場所」だったようです。
今では山谷堀公園となり、振り返ればスカイツリーがそびえ、ボクのような散歩好きや、地元の方々の憩いの場所になっていますが、それでもなんとなく当時の面影が残っているような気がしますねぇ。
浅草の華やかさとも、三ノ輪橋の庶民的な雰囲気ともちょっと異なる、特に夕暮れ時には『異次元空間への扉』が開いてしまいそうな、近未来SFの舞台にもなりそうな街っぽくないですか♪
かつての今戸橋が架かる山谷掘りと 現在の暗渠化された山谷掘り
今戸橋の立派な親柱が残る 聖人たちが住む空間
山谷のマドンナ/朝倉文夫氏制作『あこがれ』
山谷掘りのキャラクターたち/座猫、河童、踊り雀、招き猫、鉄砲狐
今戸神社: 東京に散在する「招き猫の発祥地」の一つ。飼い猫から「自分の姿を人形にしたら幸せになれる」と告げられ、猫型の焼き物を作って浅草神社で販売し裕福になった老婆の伝説が残っています。
「縁結びの神様」としても有名で「円形の絵馬」に恋愛成就を祈願する人も多いとのこと。「沖田総司の終焉の地」という言い伝えもあり境内に碑が建てられています。
合力稲荷神社の「足持石」: 1800年代前半に実在した埼玉県越谷市三野宮出身の力持ち「卯之助」さんにまつわる石らしいです。(当時の力持ちの「東の大関」だったらしいです!)
「当時のルールでは手足を使って上げることが認められており」と書かれていましたが、どんな持ち上げ方をしたのかちょっと良くわかりません。現在の「デッドリフト」のような挙げ方なのかな?
待乳山聖天: 地元の人たちから聖天様として慕われている神社。推古天皇の時代に「金色の龍」が現れこの地を守護したという伝説が残っています。 境内には長寿と繁栄のシンボルである「大根と巾着」のオブジェが多数存在しているのが特徴。
個別のお願い事で祈祷を申し込むと、行者が七日間厳修してくれた後お守りをいただく「浴油祈祷」でも有名です。
吉原大門近くの有名な天婦羅屋さんと馬肉鍋屋さん
吉原大門の向かいにある「いろは会商店街」の前に立つ「あしたのジョー」。ちょっと顔が違うけど。。。
かつてはアーケードが存在し賑わった「いろは会商店街」ですが、残念ながらアーケードは撤去され、ちょっと寂しい感じが否めないです。。。
かろうじて「あしたのジョーの商店街」の色が残っていました。
吉原大門の前に今も残る『見返り柳』
日本堤から吉原に入る人を見えず楽するためにわざとS字型に作られた「衣紋坂」
吉原大門を過ぎると道が格子状になり、華やかな(♪)看板が立ち並んでいます。
大門の反対側の入り口近くにある吉原神社。かつての遊女たちの悲しみが染み込んでいるような気がしてならない。。
吉原神社で見つけた「灯篭を担ぐ邪鬼」。興福寺の邪鬼像に似てる気もします。
カラフルな吉原弁財天。
吉原弁財天で見つけた遊女の錦絵。 華やかに描かれてはいるけど、彼女たちは無事に吉原を出れたのだろうか?
弁財天様像。後光が指していました。
吉原を出て国際通りを三ノ輪まで行くと交差点の先にある浄閑寺。死んだ遊女たちが投げ込まれたことから「投げ込み寺」という哀しい別名がつけられています。
写真の「新吉原総霊塔」にはを「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という、胸が締め付けられる句が刻まれていました。
自らも遊郭通いを重ねていた永井荷風は、遊女たちの冥福を祈るために、たびたびここを訪れて手を合わしていたそうです。
生前、荷風自身も「浄閑寺に葬られたい」と言っていたようで、写真の総霊塔の向かいには、荷風の「詩碑」と「筆塚」が建立さています。
吉原から国際通りに出て北上すると三ノ輪に着きますが、そこからさらにちょっと行くと三ノ輪橋の商店街に出ます三ノ輪橋は東京で唯一残る路面電車の始発・終点駅で、ここの商店街は昭和の香りが残る、凄く良い感じなんですよ。 写真のようなブリキの看板も演出上とても重要ですね♪
『都電屋』と書かれた大きな提灯が気になり入ってみると、肉&カクテル・ビール系のダイニングカフェ。 店内には走る電車の運転席から撮影された動画が流れ、まるでビュッフェでくつろいでいるような気分。
上階にはなんと宿泊施設もありました! 寝台車付きの大陸横断鉄道のイメージですね。外国人観光客に人気のようですが、ボクも一度泊まってみたいなぁ。
メニューを見るとカラフルな料理が多かったので、色鮮やかなテキーラサンライズをたのみ、写真の「都電(三ノ輪)バーガー」を食べながら、明るいうちから良い気分に♪ 今度は鉄道系の小説を持ってきて、ウダウダトと飲んでみたいです。
その後、店を出て商店街をブラブラと。「アジフライ」や「焼き鳥」などの食べ歩きもできるのも三ノ輪橋の魅力です。
ちょっと前まで浄閑寺で暗い気持ちになっていましたが、やっぱり最後はハッピーな気持ちで散歩は締めくくりたいですねぇ。
ほろ酔い気分のまま、折角なので都電を使って帰路につきました。都営地下鉄やJRとの接続もよく、意外と便利な路線ですよ。