昔は甘いものは非常に貴重だったので、なにかの折に饅頭を手に入れたときは、まずは神棚に捧げるという風習があり、お供えをした後に食べる時には既に「傷んでいる場合」もあったので天婦羅にして食べた、というのが「饅頭の天婦羅」の始まりなのだと、会津若松で最初に「饅頭の天婦羅」を食べたときに、お店の人から教えていただきました。
そして、揚げることによって「より餡のシットリ感やコクのある甘みが増してくる」という「二次的効果」が生じることも知り、後に「積極的に饅頭を天婦羅にして食べる」ようになったということのようです。
しかしボクとしてはこれをもう少し掘り下げてみたいのですよ♪
実はこの「饅頭を天婦羅にして食べる文化」ですが、会津若松だけでなく「長野県の伊那市」にも存在しています。ただし伊那では呼び名が「天婦羅饅頭」と倒置されており、これにもボクは理由があるのではないかなと思っている次第です。
つまり、会津若松では、あくまでもコレは「天婦羅」、つまり「人が食べる食材」であり、伊那では「饅頭」つまり「もともとは神事に用いる食材」だと捉えていたと思うのですよ。
で、この両地方の「饅頭を天婦羅にして食べる文化」については「保科正之」というお殿様が関係しているのでは? というのがボクの学説(w)の根幹なのです♪
江戸時代に伊奈市(高遠藩)を治めていた保科正之というお殿様がいました。そして彼は後に「実は彼は三代将軍家光の異母弟である」ことが判ったのです! その結果、「格上げ」されて会津若松二十三万石へ転封されたのだとか。
そうなのです、「饅頭を天婦羅にする文化」はこの時の「保科正之のお国替え」とともに、伊那から会津へと伝わったのではないでしょうか?
これは想像なのですが、元々、伊奈地方においては「神事に用いる食材として作られた饅頭」を食べるときには、痛んでいるといけないので「天婦羅にしてから食べる」という風習があたのではないかと思うのです。
一方、会津はもともと経済的にも豊かであったため「人の食品として作られた饅頭」が既に存在していて、それを会津の人々は普通に食べていたのだけど、保科正之が新しくお殿様としてやってきて「天婦羅にした饅頭を食べた」もんだから、「これはオレたちも真似しよう」ということになって、会津でも「饅頭を天婦羅にして食べた」と、ボクは考えているのです。ま、なんの証拠もないですけどね♪
実はこの「保科正之」ですが、「饅頭の天婦羅」以外にも「ソースカツ丼」にも影響を与えたのではないか? という説もボクは持っているのです♪ ご興味ある方は是非「コノ記事」を呼んでくださいませ。